昭和47年の水害のときから高梁川流域では囁かれていた「ダム起因説」
「ダム異常放水起因説」が浮上した河本ダム(新見市)の下流の高梁市でも氾濫被害が出ていた。倉敷市真備町地区から北へ20km弱の高梁市では、昭和47年(1972年)にダム訴訟が起きていた
「昭和47年(1972年)の大水害でも今回と同じように高梁川沿いの一帯が水没、その時も『ダムが原因ではないか』という話が出て被災者が訴訟を起こしたと聞いています。敗訴したそうですが」
こう話すのは、河本ダム下流の高梁川沿いでホテルを経営する金海偵子さん(高梁市在住)。今回の豪雨災害でホテルと隣の自宅とアパートの一階が浸水したが、その時の様子は「もう放水はしないでくれ 水没の街にみたダム行政の“限界”(西日本豪雨)」(7月16日放送のFNN「報道プライムサンデー」)が実況中継していた。取材スタッフがダムの異常放水時に金海さん経営のホテルに一時避難し、急激な床上浸水に遭遇していたのだ。
「その記者の方は後日、大学教授とホテルにいらして窓に残った三本線を撮影、『ダム放水量が上がるごとに水位が上昇し、跡として残ったのだろう』と解説していました」(金海さん)。
「上流のダムからの異常放水で高梁川が水位上昇、下流の洪水被害を招いた」ということを示唆する物的証拠が残っていたのだ。とすれば、45年ぶりに再びダム訴訟が起きても不思議ではない。原告となる可能性があるのは、金海さんら高梁市民だけではない。堤防決壊で街全体が水没、死者50人の犠牲者を出した倉敷市真備町地区の被災者が集団提訴に踏み切ることも十分に考えられる。
矢面に立たされることになりそうな「河本ダム」(新見市)は今回の記録的豪雨で平時の75倍も異常放水、その時間帯に下流の倉敷市真備町地区の堤防が決壊したことから「豪雨災害の原因(元凶)か」と疑われている(
「死者50人を出した倉敷市真備地区の被害の要因!? 高梁川上流・河本ダムの『異常放水』」記事参照)。
氾濫で1階が床上浸水をした高梁川沿いのホテル。「ダム異常放水起因説」を報じたFNNの取材スタッフが一時避難、窓には段階的異常放水の跡と見られる筋が何本も残っていた
こうした見方に対して、ダム管理者の岡山県高梁川統合管理事務所は「ダム決壊を避けるために異常放水は仕方なかった」(森本光信・総統轄参事官)と反論する。
「異常放水をせずにダムが満杯になると、ダム決壊で大被害の恐れがあった」というわけなのだが、「放水量の推移」と「貯水率(ダム貯水量/最大貯水量)」に注目すると、自らの職務怠慢を棚に上げた言逃れであることがすぐ分かる。
気象庁が「記録的豪雨の恐れ」という警報を発したのは7月5日14時で貯水率は満杯に近い「約8割」だった。しかし、放水量(平時は毎秒10トン)を増やしたのは27時間も後の6日17時。
「初動の遅れ」とはこのことだ。ダムをできるだけ空に近づけるために、すぐに下流が氾濫しない範囲内の最大放水量にまで上げておく必要があったのだ。迫り来る大雨に備え、貯水率をできる限り下げる緊急対応を開始、ダムの治水機能を十分に発揮できるようにしなければならなかった。
この「27時間のロス」が致命的な事態を招いた。気象庁の警報通りの、記録的豪雨が襲って来た時には貯水率は約8割のまま。遅ればせながら放水量増加を始めたものの、6時間後の6日23時には満杯となってしまって治水(貯水)機能を喪失、ダム流入量をそのまま放水する状態(「異常洪水時防災操作」)となってしまった。その結果、平時の60倍以上の異常放水が10時間以上も続いた。
下流の真備町地区の堤防が決壊したのは、治水機能喪失から2時間半後の7日1時半。準備不足で最大治水機能の2割(5分の1)しか発揮できず、下流域の住民の生命財産を守ることができなかったは明らかなのだ。