学生時代にニューヨークに住み始めた頃は、まだマンハッタンの中には治安が悪いといわれる場所がいくつもあったが、それでも一度たりとも危険な目に遭ったことはなかった。それが今、久しぶりに訪れたわずか数日の間に、こんなことに出くわすことが、ただ信じられなかった。
時間が経つにつれて怒りが増していき、男の後を追い掛けて持っていたバックで後頭部を思い切り殴ってやればよかった、証拠を残すためにスマホで男の写真を撮っておけばよかったと、様々な思考が頭を巡った。泣き寝入りするにはあまりに腹立たしく、翌日になって最寄りのNYPD(ニューヨーク市警察)を訪ねることにした。
警察署の重い扉を開けて建物の中に入ると、入口には家畜の放牧場のような柵が巡らされており、カップルの先客が1組いた。その先客は警察署に見学に来たらしく警察署員に中を案内されていたのだが、その見学が終わるのを辛抱強く待ちようやく署員に呼ばれ、前日の出来事を説明すると、署員は「相手は知り合いか?」「名前や住所はわかるか?」などと質問してきた。最後には「それでは事件化はできないね。今度から起こったときにすぐその場で911(緊急通報番号)に連絡することだな」と言われ「Sorry」と一言かけられて帰されただけだった。
国連が今年6月に発表した米国の生活実態調査によると、米国は西欧諸国の中で最も賃金格差が大きく、現在のトランプ政権による税制改革によって格差は更に悪化する見通しだという。現在は米国で4000万人が貧困状態にあり、そのうち半数は「極貧」状態だそうだ。
貧困層の間では、やり場のない憤りや鬱屈した感情が渦を巻いている。実際、米国各地では今、ヘイトが理由と思われる事件や蛮行が後を絶たない。6月下旬にはミズーリ州カンザスシティーにあるニグロリーグ博物館の施設が何者かによって破壊される事件があり、今月にはカリフォルニア州サンフランシスコの郊外にある駅で、ホームレスの20代白人男が黒人姉妹を刃物で切り付け、1人を死亡させる事件が起きている。
殺伐とした、病んだ社会としか思えない。
鬱屈した感情は巡り巡って弱者の中のさらなる弱者やマイノリティーに向けられる。そして危害を加えられた弱者は、酷いトラウマを抱えることになる。米国だけでなく世界中で格差社会は進み、日本も例外ではない状況を考えると、こんな哀しいことはない。
<取材・文/水次祥子 Twitter ID:
@mizutsugi >
みずつぎしょうこ●ニューヨーク大学でジャーナリズムを学び、現在もニューヨークを拠点に取材執筆活動を行う。主な著書に『
格下婚のススメ』(CCCメディアハウス)、『
シンデレラは40歳。~アラフォー世代の結婚の選択~』(扶桑社文庫)、『
野茂、イチローはメジャーで何を見たか』(アドレナライズ)など。(「
水次祥子official site」)