「千羽鶴は送らないで」論争はもううんざり。そんな論争する前にやるべきこと

佐藤永記
 西日本豪雨、大阪北部地震と相次いで災害が発生してしまった。東京在住で実害がなかった筆者にとっても、悲惨な状況が報じられて純粋に心が苦しい。被災していなくても、近くで被害があったと聞けばやはり明るい気持ちにはなれない。余計なお世話かもしれないが、何かできないかと寄付をしたりもする。

千羽鶴 そんな中、「千羽鶴は送らないで」という論争が起きてしまった。

 そもそも、「千羽鶴を送られて迷惑を被った被災地」の存在自体が明らかにはなっていないので、この論争自体はこうした災害が起きたときに「定番」化した、傍観者たちが勝手に論争する類のものだが、この論争について改めて考えてみたい。

折り鶴が迷惑になる場合とならない場合がある

 千羽鶴は気持ちを形にすることで、送る側は「気持ち」を送れるし、受け取る側は「応援されている気持ちを形で見る」ことができる「心の支援」だ。物資やお金などの物理的支援とは性質が違うものだ。気持ちにまで無理に介入する必要はないはずである。これが「送ってもいい派」の基本的な考えだ。

 しかし、千羽鶴が迷惑になるのは「気持ち」を「形にして送る」ことで「輸送」や「管理」に迷惑がかかる可能性があるからであり、また、被災したときに物資や援助が必要な状況で、場所だけ取る千羽鶴は迷惑でしかないと「送らないで派」は言う。

 双方の見解は一見、食い違っているように見える。だが、落ち着いて整理すれば、どちらが正しいという類の話じゃないというのは分かってもらえると思っている。

 この問題が最近になって表面化したのには以下の理由があると筆者は考えている。

・輸送が整備されたことで、千羽鶴がすぐ届いてしまうようになった
・SNSなどで被災者が実際に迷惑だった例が「すべてに当てはまる」と解釈されてしまった

 被災して交通網が遮断されるとはいえ、遮断されている地点まで物流が滞らないくらい輸送網が発達している日本において、配達業者側がそこから努力すれば荷物が届けられるようになった。しかし、結果これが、必要な物資よりも先に千羽鶴が届く、もしくは物資や千羽鶴が届けられてしまう地域には一気に届いてしまい、被災地側が仕分けで麻痺してしまう、また、届けられない地域との格差がSNSなどで直接認識できることで不公平感を生んでしまう、という状況を作り出してしまっている。

 物資が届きすぎて仕分けに麻痺してしまったり、物資の内容が偏ってしまった地域からは、千羽鶴は残念ながら迷惑という解釈をされても仕方がなかろう。そういった声がSNSに上がるのも、切羽詰まった方々から出るのは当然だ。ただ、これで「すべての被災地が迷惑である」と解釈してしまうことから飛躍してしまい、「千羽鶴は迷惑だ」という考えに広がってしまうのは間違いだと思うのだ。

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そんな論争する前に

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