「児童虐待への処方箋は戦前道徳の復活」? 珍説をのたまうエセ保守議員の伝統軽視を斬る

日本固有の道徳とは何か?

 日本オリジナルの道徳や神道とは何かを徹底して考え抜いた人物に、江戸時代の国学者、本居宣長がいる。宣長は当時の日本に深く浸透していた儒教や仏教という外来思想と格闘し、それらを振り払った先にあるはずの日本固有の道徳観念を析出すべく、本邦の古典を読み解いていった思想家だ。仮に宣長に対し、明治天皇の名において渙発された事を伏せたまま、教育勅語を見せたならば恐らく彼は即座にこう断じたはずだ。「このどこが日本の道徳か!儒教まみれではないか!」、と。  では、宣長の考える日本固有の道徳とは何か? 宣長の思索の特徴に「漢意(からごころ=儒教的な物の考え方)批判」と呼ばれるものがある。これは単なる中国批判ではない。はるか昔から中国文明の影響下にあった日本人には、ほぼ無意識のレベルにまで儒学的な思考様式が染み付いている。日本において善悪を判断し、物事の道理を明らかにすること自体、どこまで行っても漢意の枠組みから逃れられないと言うのだ(『玉勝間』)。  杉田水脈議員のいう「反日日本人」や左翼への批判と一見似ているようが、この先の理路が決定的に異なる。  宣長は主著『古事記伝』の総論である「直毘霊(なおびのみたま)」という文章の中で、「実は道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり」という不思議な言い回しをしている。宣長の言わんとするところを敷衍するとこうだ。 『古事記』をいくら読んだところで、そこには神々をめぐる様々なエピソードの羅列があるばかりで、儒教の説くような道徳も仏教のような教えも何もない。だが、これは中国文明から影響を受ける前の日本が、そもそもそうした道徳も教えも一切必要としなかったことを意味する。道徳も教えもないまま穏やかに統治され、皇統が神話の時代から連綿と続いていたのが古代の日本なのだ。古代の日本人はおのずから、つねにすでに道徳的なのであり、そこには一切の不道徳は存在しない。不道徳が存在しない以上、古代日本には「道徳」などという言葉も観念もそもそも必要なかったので『古事記』にも「道徳」を意味する「ミチ」という語は使われていないのだ、と。これが宣長の言う日本固有の道徳の姿だ。

エセ保守主義者の伝統軽視

 だれしも気付くように、本居宣長のいう日本の道徳は全く実践的ではない。倫理も制度も法も禁忌も一切なにもなく、あるがままのどこまでもまっすぐな神々と人々によって平穏に営まれていたのが中国文明と接触する前の日本社会だというのだから、結局、何もしないことが最善ということになる。  これを今日的な視点から荒唐無稽だと笑うのはたやすい。だが、宣長のあくまで妥協を退け、文献に即して厳密に自国について考え抜こうとする姿勢を、安易に教育勅語などに飛び付く今日のエセ保守主義者たちは少しでも見習ってはいかがか。  まさか保守を自称しておきながら、明治維新以前の日本を一切無視するなどという愚を犯すはずもなかろうが、昨年末「(江戸時代は)400年間、戦争をしていない」などと異次元の歴史観を披露し、ネット上に混沌をもたらした杉田水脈議員のことであるから、本稿の内容がどこまで理解されるのか、正直心許ない。  ともあれ、杉田議員は、せっかく『万葉集』に出典を持つ名前をお持ちなのだから、せめてもう少し自国の文化と伝統を尊重し、真摯に学んでいただきたいものである。それが先述したような安易な戦前日本の理想化からの脱却へとつながる道でもあり、真の意味での骨太な保守派国会議員として、その名に恥じない仕事をしていただく端緒となると筆者は確信している。  それにしても、昨今の日本に跋扈するこうした「自称保守」の人々は、単なる昭和初頭から終戦までの日本のファシズム期ファンクラブの不勉強で怠惰な会員に過ぎないのではないか。そのような輩はいさぎよく「保守」を僭称するのは今後一切やめ、正直に「ファシスト」と名乗っていただきたいと、ひとりの愛国者として申し上げておく。 <文・GEISTE(Twitter ID:@j_geiste〉 photo by kimura2 via pixabay(CC0 Public Domain)>
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