『宮本から君へ』とはなんだったのか、そして「宮本と私」という話 「サラリーマン最終列車」#3
『宮本から君へ』は、正直嫌いな漫画だった。連載されていたのは’90年から’94年。ちょうどその頃に社会人になった自分は、宮本の暑苦しいキャラクターや泥臭い働き方をみて、「ああいうサラリーマンにはなりたくない」と思ったものだった。
’09年に久しぶりに復刻された時、帯には「バブル期の日本で最も嫌われたマンガ」と書かれていた。実際、拒絶反応を示すアンチが連載時には相当いたという記憶がある。しかし、一方では熱狂的なファンも確実に存在した。
連載から20年以上経った今、『宮本から君へ』(テレビ東京)は深夜ドラマとなって放映されている。これが実に原作に忠実な実写化で、原作愛に溢れた人たちが集まり、全体重を乗せて制作しているということがよくわかる。
登場人物のセリフや各場面の構図、空気感に至るまで、驚くほど原作そのまま。主人公の宮本を演じる池松壮亮には、完全に宮本が憑依している。大人たちが本気で作るドラマは、好き嫌いの壁を越えて迫ってくるものがあり、毎週金曜の夜、30分間釘付けになっている。
「物わかりのいい大人」になれない新人営業、宮本浩の生きざまを描く原作は、3つの章に分けられる。駅で見かけた美女への恋心を描いた序盤。ライバル社のエリート営業とバチバチの仕事対決をする中盤。恋人がレイプされ、宮本が復讐鬼と化す、トラウマ必至の終盤。今回のドラマでは中盤までを描くようだ。
この中盤に出てくる益戸というライバルは、スマートで要領がよく、宮本とは正反対のキャラクターとして登場する。作者の新井秀樹は、益戸は『課長島耕作』の島耕作をモチーフにしていた、とインタビューで語っている(復刻版第1巻収録)。
つまり『宮本から君へ』という作品は、同時期に『モーニング』に連載されていた島耕作へのアンチテーゼだったわけだ。だからこそ、宮本は島耕作とは徹底的に真逆の人間として描かれている。
島耕作はいつもクールでスマートでクレバー。それに対して、宮本はとにかくよく泣き、よく怒り、よく笑う。何かあるとすぐに全力疾走して大汗をかく。島耕作のようにモテないし、社内政治もからきしダメ。島耕作は宴席での裸踊りを要求されても拒否したけれど、宮本は仕事のためなら土下座も辞さない。
益戸に篭絡された取引先の部長に印鑑をもらうため、実に30ページ以上にわたって延々と続けられる土下座シーンは強烈だった。逃げる相手を這いつくばりながら追いかけまわし、根負けさせようとする、攻撃としての土下座。ドラマでも、恐らくここが最大の山場になるだろう。
自分は仕事で土下座なんてしたくないと思ったし、宮本の働き方は当時ですら相当古臭く見えた。社員同士で頻繁に酒を交わし、裸で一緒にサウナに入り、会社は濃密な疑似家族で、評価軸は人情と根性。完全に高度経済成長期のサラリーマン像だ。それよりも益戸のドライでコスパのいい働き方のほうが筋が通っていたし、リアリティがあった。
ただ、「俺がカッコいいと思っているものをそうじゃないって言う人間に認めさせたいです」という、宮本の青臭い反抗心は嫌いじゃなかった。自分も当時のバブル景気の浮ついた世相に馴染めない人間のひとりだったからだ。
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