ニューヨークで売られている、色とりどりのM&Msのチョコレート
一方、こうして私たちが海外の色彩感覚に違和感を覚えるのと同じように、多くの外国人が首を傾げる「日本の色彩感覚」も少なからず存在する。
中でも外国人を悩ますのが、「青」と「緑」の関係性だ。
筆者が日本語教師をしていた頃、“毎朝すること”をテーマにした授業で、
「(ホームステイ先の)お母さんは毎朝ジュースを作ります。“青汁”といいます、でも“緑汁”です」と、困惑した様子で発表した学生がいた。
諸説あるが、これは、色彩表現が「白・赤・青・黒」の4色しかなかった平安時代、「青」を指す範囲が、現在の「緑」や「紫」、「灰色」と、多色に渡っていたことに由来する。
そのため、先の「青汁」のほか、緑色のモノは今でも「青信号」や「青りんご」と表現されることが多いのだが、「先生、“青々とした緑”は何色ですか」と、授業後に集団で質問にやって来る学生に対峙する度、例を挙げて説明しながらも、正直「2対1でもうこれは青だろ」と内心思うこともあった。
欧米との間で色彩感覚に違いが生じたのには、こうした歴史・文化的背景の他に、「メラニン色素の量の差」という、物理的な理由も一部あるといわれている。
こげ茶色や黒い目を持つ人が多い日本人に対し、白人の瞳は青や緑、グレーにヘーゼルと、実に多様だ。
そんな彼らの目は、日本人の目よりメラニン色素が少なく、眩しさに弱い。そのため、色の見え方にも違いがあるとされており、「赤色」においては、青い目は黒い目よりも4倍の色素視感力があるという研究報告もある。
余談だが、筆者はニューヨークで、御年90歳になる白人女性オーナーとアパートをシェアして暮らしているのだが、彼女は筆者の部屋から漏れ出る明かりを見つけると、毎度「なんでこんなに明るいのに電気をつけているんだ」と、ドアを叩きにやって来る。
筆者はその都度、「あなたと私のメラニン色素量の違い」を丁寧に説明するのだが、彼女は毎度、腑に落ちない様子で、「稲川淳二氏」がいないと成立しないほど暗いリビングへと戻っていくのだ。
このような、日米間に生じる「色に対する感覚の違い」に言及すると、思い出されるのが昨年から年初にかけて話題になった、「お笑い芸人の黒塗りメイク問題」だ。
「これのどこが差別なんだ」と首を傾げる人々と、「浅はかだ」と主張する人々の意見の投げ合いは、当時から幾度となく繰り返されたが結論が出ず、後味だけ悪くして立ち消えた感が否めない。
アメリカは、言わずもがな「移民の国」だ。そのため、「アメリカ人」とひとくくりにしても、その前には「ヨーロッパ系」、「アフリカ系」、「アジア系」、「ヒスパニック系」など、異大陸からのルーツを持つ国民がほとんどで、ゆえに無論、日本以上に体の色の違いや、各民族の色彩感覚を目の当たりにする機会も多くなる。
化粧品売り場に行けば、「肌色」の概念が一気に吹っ飛ぶほど多色のファンデーションが並び、車の運転免許証にも目の色が明記される。
1つのテレビ番組に出演する俳優やアナウンサーが、同じ人種で揃うことは決して起こり得ないし、公共トイレを示す「男女プレート」も、赤=女性、青・黒=男性とせず、「世界で標準化されていない固定観念は使わない」といった配慮が進む。
こうした「色の違い」が日常に溶け込む国と、島国であり基本的に黄色人種が歴史の大部分を占める国とでは、感覚が違って当然で、蛍光ピンクのハンドソープに手を引っ込めるのも、蛍光パステルカラーのカップケーキに食欲が湧かないのも、黒塗りされた顏に笑ってしまうのも、なんら不思議なことではない。
ただ、重要なのは、それらを「なんら不思議なことではない」、で終わらせないことなのだ。
各々の国には、他国から見れば「自文化との違い」でしかないものであっても、中には、他国が想像し得ないほど深い伝統や歴史、傷を背負っていることがある。
それらを100%感じ取ることは難しいかもしれないが、目元の色眼鏡を一旦外し、時には互いの色眼鏡を試し掛けしてみるくらいの理解・関心があれば、いつか我々にも2色の虹が見えてくるのかもしれない。
【橋本愛喜】
フリーライター。大学卒業間際に父親の経営する零細町工場へ入社。大型自動車免許を取得し、トラックで200社以上のモノづくりの現場へ足を運ぶ。その傍ら日本語教育やセミナーを通じて、60か国3,500人以上の外国人駐在員や留学生と交流を持つ。ニューヨーク在住。