与那国島の海底遺跡(筆者撮影)
日本最西端の島・与那国島。はっきり言って、東京からのアクセスは極端に悪く、直行便はない。定期便があるのは那覇と石垣だけだ。
筆者の場合、水曜朝に成田からのLCCで那覇入りし、数時間のトランジットの間に那覇在住の友人と旧交を温めた後夕方に石垣島に到着した。
石垣からさらに約20分の西に与那国島はある。東京―石垣のLCCはまだない。与那国はさらにない。
石垣から近くの島、たとえば小浜島や竹富島、西表島といったところには毎日何度もフェリーが往復しているが、与那国との間には週二便しかない。しかも、波の荒さから別名「ゲロ船」と呼ばれているらしい。
そんな日本最西端の小島が全世界から注目を浴びるようになったのは今から20年ほど前のことだった。
島の近くで「海底遺跡」とみられるものが見つかり、世界的ベストセラー「神々の指紋」の著者グラハム・ハンコックが実地調査に訪れたのだ。
筆者はそんな海底遺跡の発見者・新嵩喜八郎氏にインタビューを申し込むことにした。
新嵩喜八郎氏は1986年、ダイビンク中に与那国島の海底遺跡を発見した
11月某日、与那国島は曇り、雨が降り注いでいた。
朝一番に新嵩本人がガイドを務める遊覧船に乗り、海底遺跡を見物する。専門的なことはよくわからないが、どう見ても人間が作ったとしか思えない直角の階段らしきものが見えてくる。そして、海岸線からたかだか5km程度しか離れていないはずなのに、荒波のせいで船酔いする。たかだか5kmで気分が悪くなるなら、石垣―与那国間のフェリーが「ゲロ船」と呼ばれるのもよくわかる。
「ゲロ船」の高波に揺られ、海底遺跡を目指す
後に本人の口からも出てくるが、与那国は台湾と石垣島のちょうど中間にある。つまり、東京はもちろん、那覇よりも台湾のほうが近いのだ。この事実が与那国島の気質、そして“人間・新嵩喜八郎”を作り上げるうえで大きな影響を及ぼしている。
そろそろ手が空くだろうかと思い、筆者が一泊した新嵩が経営する宿で教えてもらった携帯番号に電話を入れる。すると、着メロは「君が代」だった。
海底遺跡が見つかるまでの与那国は、漁業と農業で生業を立てる島だった。主な農作物は水稲とサトウキビだったという。
漁業の中心はカツオで、戦前には大規模なカツオ節工場が作られていたという。この工場で作られたカツオ節は、台湾経由で日本本土に運ばれていた。
「石垣まで136km、台湾まで110kmですからね。昔から石垣―宮古―那覇という船はありましたけどね、それじゃ大変でしょ。台湾経由のほうが早かったんですよ。女中奉公に行くのも、就職するのも、帝国大学に進むのも台湾でしたね」
新嵩の口から「カツオ節工場」という言葉が出てきたとき、筆者はふとかつての尖閣にもカツオ節工場があったことを思い出した。
「そうなんですよ。カツオ節工場もそうですが、あとは貝殻製のボタンを作ったり、羽毛もとれましたね。アホウドリの羽毛を集めて海外に輸出しておりました」
その次に、新嵩の口からは驚くべき事実が語られた。