金型業界に衝撃を与えた3Dプリンタの導入をあえて提案してみるも……
こうして、2代目として両親と供に工場を経営していくことになったのだが、正直、両親と働くことほど辛いことはなかった。
筆者の家族は、昔から「馬鹿」が付くほど仲が良かった。極太の大黒柱だったヤンチャな父に、ド天然の母と4歳差の妹。皆が互いを絶妙なバランスで支えながら暮らしていた。病に倒れた大黒柱を突然支えなければならなくはなったが、筆者は幼い頃から両親の働く姿を見ていたことで、社会経験がなくてもすんなり工場には順応できると思っていた。
ところが、いざ両親とともに働いてみると、全くしっくりこない。最初はただただ筆者の経験不足からくるものだと思っていたのだが、いずれその原因が、「新旧の意見の食い違い」にあると気付き始める。
父の病気後、異常なまでの円高や、職人の減少などで、工場が不安定の只中にあった頃、世間は3Dプリンタの登場に湧いていた。しかしその一方、金型業界の一部では「これまでか」という絶望感が漂い、多くの関係者が「金型の終焉」を予感した。3Dプリンタは、金型がなくても図面さえ描けてしまえばその場でプラスチック製品が出来上がってしまう。つまるところ、金型で食べている多くの職人が今後、ぞくぞくと路頭に迷う懸念があったのだ。
当時、現場の新人育成に頭を悩ませていた筆者は、これをある種の「チャンス」だととらえていた。金型研磨を生業とする父の工場には、金型と職人が存在しなければ仕事にならない。この両方が安定しないのならば、3Dプリンタを量産能力が兼ね備わる前に導入し、新しい活路を見出すべきだと考えたのだ。
しかし、今まで「砥石一本」でやってきた両親にとって、あの機械はただの「びっくり箱」でしかなく、一台試しに導入してみようという筆者の提案は、最後まで通らなかった。何度も説明し、説得したが、「新人育成があなた(筆者)の仕事」と、彼らが今までの方針を曲げることはなかった。
経験と技術だけでやってきた古い体制の町工場にとって、新規事業への参入は、培った経験に対するプライドや、失敗した時のリスク、軌道に乗せるまでの労力など、多くのハードルを越える覚悟が必要だったのだ。
このように、先代は「培ってきた経験」を、次世代は「チャレンジ精神」を切り札とするのだが、これが面白いほど真逆であるがゆえに、筆者と両親は、ぶつかることが日常茶飯事となっていった。同じ空間で新旧が議論しても、話はまとまらない。結局平行線のまま家に帰っても、10分前まで一緒だった両親には「ただいま」を言わなくなる。朝食ではその日のスケジュールを確認し、夕飯には工場に引き続き、意見をぶつけ合う毎日。
それゆえ、筆者は異常なまでにトラックで得意先に行くことが好きになっていた。