残業が増えれば労基法は守れない。労基法を守れば、納期が守れない
経営側からすると、職人育成には長い時間と賃金を費やしているため、途中で辞められては今までの努力が無駄になる。
昨今の若者の仕事に対する意識の変化も相まって、新人育成には本元の工場運営とはまた別の神経を使っていたのだが、そんなある日、1人の新人が残業時間に対する不満を経営陣ではなく労働基準監督署へ相談していたことが分かり、工場が大きく揺れた。
当時、手一杯だった筆者が思っていた気持ちを率直に、つつみ隠さずに言えば、こうだ。
「職人の残業が増えれば、労働基準法が守れない。労働基準法を守れば、納期が守れない」
長期的解決策として入れた新人は、不慣れな仕事に残業時間も手当も増え、給料はもはや熟練職人と変わらず。
得意先にでさえ弱音を吐けない経営陣とは対照的に、自分の不満を国に訴える新人に、持って行き場のないやるせなさに打ちひしがれた。
結局父の工場は、法令違反に値せずとも、より改善した方が良いと思われる際に交付される「指導票」を受けるに至った。
しかし、体力のない中小零細企業は、これがきっかけで経営状況が悪化し、一気に倒産へと追いやられることもある。板挟みに疲れ果て、父のように自ら会社を閉める道を選ぶ経営者も少なくない。自分の会社に見境なく「ブラック」のレッテルを貼ることは、挙句自らの首を絞めるばかりか、再就職の難しい年齢に差し掛かっている熟練職人をも巻き添えにすることになりかねないのだ。
経済は生き物である。今目の前で起きていることが全てではない。父が身を置いていた製造の世界だけでなく、どんな業界にもそれぞれ仕事の波がある。波を作り出す発注元に対し、その波長を予測・計算し、荒波に備えるのは受注側の責任だ。
しかし、押し寄せる波が大きすぎれば、中小零細企業はかじ取りができず、やがて海底へと沈んでしまう。
過重労働などの違法行為は決して正当化されるべきことではない。が、会社の存続をかけたブラック企業には、利益追求型のそれとは一線を画した何らかの対応や救済が必要である気がしてならない。ブラック企業にならざるを得ない状況下に置かれている企業があるという現実、法を守ることで潰れていく会社があるという現実を見過ごし続けていては、日本の技術は衰退の一途をたどるばかりだ。
<文・橋本愛喜>