いつだったか、筆者は本人に「将棋で負けて初めて泣いたのはいつか」と聞いたことがある。すると、こんなふうに言っていた。
「六級から七級に落ちたときは、これだけ親に負担をかけて、好きな将棋をさせてもらっているのに、あまりにも不甲斐なくて両親に申し訳なくて泣くしかありませんでした」
当たり前だが、名寄でプロ棋士を目指した前例などあるはずがない。棋士の中には教師や同級生から理解してもらえず苦労した人もいると聞くが、その点、直裕は恵まれていた。
「幸い、学校の先生も早退する事情をよくわかってくださって、快く送り出してくれましたし、同級生もいつもノートを書いてくれました。本当によくしてもらったんですよ」(寿子氏)
しかし、この親しかった同級生ゆえに、のちのち直裕は大きく苦しむことになる。
高校進学の時期を迎えたがもちろん、藤井四段と違って当時4級の直裕がいつ四段になるのか、そもそも四段になれるのか保証は全くなかった。寿子氏はこの時期を振り返る。
「名寄にも二つ高校はあります。しかし、このままの生活を続けては移動の時間がもったいないですし、何より研究会などで対局している人たちには追い付けない。ネットで師匠の所司先生に教えていただきましたが、それも限界があります。計算すると、あの子が東京でアパートを借りて生活する費用と月二回飛行機で移動する費用はほぼ同じなんですよ。一人っ子で、贅沢しなければなんとかなるからと東京の高校に進学することを決めました」
だが、東京の高校ならどこでもいいわけではなく、ここで奨励会員独特の問題に直面する。
「あの当時は、月に何回か必ず奨励会員はプロ棋士の対局で記録係を務めなければなりませんでした。持ち時間が長ければ、深夜になることもあります。となると、全寮制の門限がある学校には入れないのです。アパートの一人暮らしを認める学校はほとんどないんです」
念のため付け加えておくと、「記録係」とは、プロの対局で駒の動きを記録する係である。NHKの対局などで「XX先生、持ち時間が残り3分となりました。1,2,3…」などと声をかける人の姿を見たことがある方もおられよう。あれが「記録係」で、奨励会員にとっては決しておろそかにできない修行の場でもあるのだ。