人間が目から得る情報は、頭に入ってくる情報の75%と大部分を占めます。そのような意味でも見るということはコミュニケーションの基本であり、とても大切なものなのです。
しかし、残念ながら、この見る行為ですら、私たちの多くはしっかりできていないのが実情です。「みる技術」の「みる」を漢字で書いてみると代表的なものは5つあります。
1. 視界に入れる「
見る」
2. 注意してみる「
視る」
3. 観察する・時間的変化もみる「
観る」
4. 医者が症状・状態を診察する「
診る」
5. 不調者をケアする「
看る」
以上の5つです。あなたはいずれの「みる」もできていますか? 平常時(健常人)を対象とした1~3の「みる」ならば、「すべて自分はできていると」言う方もいらっしゃるでしょう。しかし、本当でしょうか?
私の経験上、コミュニケーションの上手な人は5つを全部やっているわけではありません。しかし、その場、その場で必要な「みる」を意識せずとも自然とできている人が多いのです。それは、上記のような、「みる技術」を持っているからではなく、「みる技術」を使いこなす「
マインド」を持っているからだと私は考えます。
昔から「人は見たいものしか見ていない」と言われています。
人は自分の視界に入っていても、注意をしなければ見ておらず、意識にすら上がってこないことが多いのです。また、あることを意識してみて見ると、ほかのことが見えなくなってしまいます。人間とはそのような生き物なのです。
例えばこの文章を読んでいるあなたは、文字は目で注意して見ていますが、同じパソコン(あるいはスマホ)のスクリーン上にあるウェブブラウザの枠にある文字やURL表示は意識に上がってきていないですね。そう言われて、ウェブブラウザの枠に注意が行くと、今度はその瞬間は本文のテキストは見えていないのです。
このように人は意識を向けたものしか、実際に自覚を持って見られないのです。
先ほどのその場その場で必要な見るを意識せずとも自然とできている人は、この点はどうなのでしょうか。このような人たちでもやはり、全部の見るを同時にはできていません。
ただ、この人たちは、
あることを「みる」ことは、同時に他のことは「みる」ことができていない可能性があるということを知っています。自分は全ては見えていないということを自覚しているのです。
いくら注意して見ても、自分には見えていない部分があるということを知っているということは、つまり、
見えていないこと=知らないことがあるということを知っているのです。
自分のことはわかっても、他人のことであればわからないことがあって当然です。この「他人については知らないことがある」ということを知っているというのが、「みる技術」を持っている人に共通しているマインドです。