ヒラリーに過激派の過去? ホワイトハウスが非公開要請した卒論の謎

大統領夫人は「過激派」だったのか?

 ヒラリーの卒論は、なぜ隠されなければならなかったのでしょう。謎を解くためには、ヒラリーが研究対象としたソウル・アリンスキーという人物を知らねばなりません。 「住民組織化の父」との異名を持つアリンスキーは、民衆による草の根運動を米国中に広めた第一人者です。この世には「持つ者」「持たざる者」「わずかに持つ者」「より多くを求めるもの」の4種類の人間がいると訴え、「富や権力を持たざる者」による反体制デモを組織しました。彼が1971年に著した『過激派のルール(Rules for Radicals)』という本は、今なお社会活動家のバイブル的存在であり、「アメリカの民主主義を変えた」と評されています。  自身を「過激派」と称してはばからなかったアリンスキーは、1972年に亡くなる直前、プレイボーイ誌のインタビューに応じて「もし死後の世界があるならば、私は躊躇なく地獄行きを選ぶだろう」と語っています。「私はいつも『持たざる者』の味方だった。地獄の亡者たちは『美点を持たざる者』。彼らを組織してやるのが楽しみだ」というのがその理由です。  またアリンスキーは著書『過激派のルール』の冒頭で、「人類が知る最初の過激派」として、堕天使・ルシファー=後の魔王サタンに献辞を捧げています。この悪魔崇拝者のごときアリンスキーのイメージゆえに、彼の思想を研究したヒラリーにも「隠れ過激派」のレッテルが貼られることになったのです。

大学改革の旗手・ヒラリー

 2001年、クリントン大統領の退任をもって、ウェルズリー大学はヒラリーの卒論を公開しました。その内容は、ヒラリーを過激派と結び付けたい勢力にとっては、拍子抜けするものだったことでしょう。実際のところ、ヒラリーはアリンスキーの思想を否定していたのです。  ヒラリーは対貧困政策などに関しては、アリンスキーの政府批判に同調していました。当時のトップダウン型の政策は、市民の願望からかけ離れていると分析しています。  しかしヒラリーは、アリンスキーの「社会の制度は外部からしか変えられない」という主張には、真っ向から異議を唱えました。反ベトナム戦争・反人種差別を訴える学生運動が全米に広がった1960年代に、ヒラリーはウェルズリー大学の学生自治会長に就任しました。権力の座につくことで、「内部からの制度改革」を試みたのです。  1968年9月、大学のキャンパスに到着したばかりの新入生たちを前に、ヒラリーは上級生を代表してスピーチを行いました。学生運動の激しい時局をふまえ、ヒラリーは「あちこちの大学では、時に暴力を伴う運動によって変革がもたらされます。ウェルズリーでもデモ活動は行われてきましたが、本大学におけるほとんどの改革は話し合いによる結果です」と宣言しています。  ヒラリーがリーダーシップを発揮した1968年から1969年の間、ウェルズリー大学には多くの変革がもたらされました。「ウェルズリー生は改まった席ではスカートを着用しなければならない」「男性ゲストは日曜以外に女子寮を訪問してはならない」「全学生は『聖書の歴史』を必須科目として受講しなければならない」などといった古い校則は撤廃され、マサチューセッツ工科大学との単位交換や、貧困家庭の高校生に大学施設を開放する「教育推進プログラム」などの、新しい取り組みが始まりました。  ヒラリーは、バリケードを張って声高にがなりたてるのではなく、討論会の進行を務めたり、運営委員会で発言することで、冷静に数々の改革を推し進めたのです。  ヒラリーはアリンスキーの方法論には疑問を唱えても、その人間性の魅力については認めています。アリンスキーも優秀なヒラリーを気に入り、卒業後は彼のもとで働かないかとスカウトしたそうです。ヒラリーはこの申し出を断り、秩序立った政治を学ぶため、イエール大学の法科大学院に進学しました。そこで運命の人、ビル・クリントンと出会うことになるのです。
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ヒラリーを苦しめる卒論の亡霊
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