明治実業界の巨星、渋沢栄一の言葉に今こそ学べ!

 今回紹介する『現代語訳 論語と算盤』は、「日本資本主義の父」「実業界の父」とも評される渋沢栄一氏の代表作に数えられる一冊。刊行は1916年(大正5年)という、古典的名著を再編集した新書である。中国古典に精通した作家の守屋淳氏による、明瞭な現代語訳も非常に心憎い。  渋沢栄一(1840〈天保11〉年~1931〈昭和6〉年)といえば、日本の近代化に尽力した実業界の巨人である。みずほ銀行、東京海上火災、王子製紙、東洋紡、東京ガス、東京電力、帝国ホテル、日本郵船、JR、サッポロビールなど、およそ470にものぼる企業の設立に携わったというから驚きだ。また、東京証券取引所、東京商工会議所の立ち上げにも参画している。  それだけでなく、社会事業にも非常に精力的で、大小合わせると約600団体に関与した篤志家でもあった。主だったところでは、日本赤十字社、聖路加国際病院、東京慈恵会、一橋大学、早稲田大学、二松学舎大学、日本女子大学といった機関の設立や初期の運営に関っている。さらには、関東大震災の復興のため、大震災善後会の副会長として寄付金集めに手を尽くしたり、中国で水害が起こった際には中華民国水災同情会の会長になって義援金を募ったりと、生涯を通じて寄付活動を実践。ついに1926年、1927年には、ノーベル平和賞の候補にもノミネートされるなど、とてつもない大人物だった。  さて、本書は、渋沢の理念の根幹である「道徳経済合一説」を広く世に知らしめた一冊として伝えられている。 ――――――――――――――  本当の経済活動は、社会のためになる道徳に基づかないと、決して長く続くものではなと考えている。  このようにいうと、とかく「利益を少なくして、欲望を去る」とか、「世の常に逆らう」といった考えに悪くすると走りがちだが、そうではないのだ。強い思いやりを持って、世の中の利益を考えることは、もちろんよいことだ。しかし同時に、自分の利益が欲しいという気持ちで働くのも、世間一般の当たり前の姿である。そのなかで、社会のためになる道徳を持たないと、世の中の仕事というのは、少しずつ衰えてしまう、ということなのだ。 ――――――――――――――  これが、道徳経済合一説の基本的な考え方といえる。  渋沢は、中国の古典『論語』に代表される儒教の精神性を自身の規範としてきた。経済活動、政治活動においても論語から学ぶべきところが多い、としてさまざまな言説を展開している。 ――――――――――――――  わたしは普段の経験から、 「論語とソロバンは一致すべきものである」  という自説を唱えている。孔子は、道徳の必要性を切実に教え示されているが、その一方で経済についてもかなりの注意を向けていると思う。これは『論語』にも散見されるが、とくに『大学』という古典のなかで「財産を作るための正しい道」が述べられている。  もちろん今の社会で政治をとり行おうとするなら、その実務のために必要経費が必ずかかってくる。また、一般の人々の衣食住に関わる財務諸表が必要になってくるのはいうまでもないだろう。一方で、国を治めて人々に安心して暮らしてもらうためには、道徳が必要になってくるので、結局、経済と道徳は調和しなければならないのだ。  だからこそ、わたしは一人の実業家として、経済と道徳を一致させるべく、常に「論語とソロバンの調和が大事なのだよ」とわかりやすく説明して、一般の人々が安易に注意を怠ることがないように導いている。 ――――――――――――――  このあたりの言説は、たとえばアダム・スミスの『国富論』や『道徳感情論』とも通底する部分が少なくない。人間は他者に対して「共感」してもらうことを求めるもの。商売においても然りで、「儲けたい」という利己的な動機から行動するにせよ、周囲から「まあ、そのくらいまではアリだろうな」と共感してもらえる線を意識して行動するものだ。「そこまでやるのは、人の道に反する」「最低最悪だ」と周囲から共感してもらえない商売は、やがて破綻し、淘汰されていく――僕の管見で要約すると、これがアダム・スミスの唱える感情道徳論の概略である。キリスト教的な世界観に基づいたアダム・スミスの言説と、儒教的な世界観に基づいた渋沢の言説に相通じるものがあるというのは、なかなか興味深いところだろう。  本書に登場する渋沢の主張は儒教の影響がたいへん色濃いので、見方によっては「説教好きな老人からのお小言」のように響いてくることもある。というか、少なくとも若いころの自分は、そう読んだ。 ――――――――――――――  誰が仕事を与えるにしても、経験の少ない人に、初めから重要な仕事を与えるものではない。  (中略) 「おれは高等教育を受けたのに、子供扱いでソロバンを弾かせたり、帳面をつけさせたりするのは馬鹿馬鹿しい。先輩なんていうものは人材も経済も知らないものだ」  などと不平をいう人もいるが、これはまったく間違っている。なるほど、ひとかどの人物につまらない仕事をさせるのは、人材や経済の観点からみてとても不利益な話だ。しかし先輩がこの不利益をあえてするのには、大きな理由がある。決してその人を馬鹿にした仕打ちではないのだ。その理由はしばらく先輩の皮算用にまかせて、青年はただその与えられた仕事に集中しなければならない。  こうして与えられた仕事に不平を鳴らして、口に出してしまうのはもちろんダメだが、「つまらない仕事だ」と軽蔑して、力を入れないのもまたダメだ。およそどんなに些細な仕事でも、それは大きな仕事の小さな一部なのだ。 ―――――――――――――― ……若い方たち、言いたいことはわかる。イラッときただろう。「オヤジ、うぜぇ」なんて思ったかもしれない。僕も、かつてはそう感じた。  しかし一方で、次のような指摘も登場する。 ――――――――――――――  現代の実業界の傾向を見てみると、とくに悪徳重役のような人物が出て、株主から託されている資産をまるで自分のもののように心得て、好き勝手に運用して自分の利益にしようとする者がいる。そのため会社内部は伏魔殿のようになってしまい、公私のケジメなく秘密の行動が盛んに行われるようになっていく。これは実業界にとって本当に嘆き悲しむべき現象ではあるまいか。 (中略)  正真正銘の商売には、基本的に機密などといったものはないと見てよいだろう。  ところが社会を実際に見てみると、会社になくてもよいはずの秘密があったり、あってはならないところに私的行為があるのは、どのような理由によるものだろう。わたしはこれを、「重役にふさわしい人材がいない結果だ」といい切るのに躊躇しないのである。  つまり、このわざわいのもとは、重役に適任がつけば自然となくなっていくはずのものなのだ。ところが適材を適所に使うということは、なかなか容易ではない。現在でも重役としての腕前に欠けているのに、その地位についている人が少なくない。 ―――――――――――――― 「若い者はなってない」というだけでなく「立場のある大人がちゃんとしないでどうする!」と断じてもいるのだ。  本書の刊行は大正5年だが、現代においても、状況はあまり変わっていないように感じてしまう。翻って、渋沢の言説はいまでも確かな強度と説得力を持って、読み手の心に響いてくるのだ。普遍性を備えた卓見に溢れる本書から、「古くさい老人の教戒」などと鼻白んで距離を置いてしまうのは、非常にもったいない。  とはいうものの、自分も最近まで、この本の価値をきちんと理解できてはいなかったと思う。本書を初めて読んだのは、20代後半だった。正直、あまりピンッとこず、大まかにナナメ読みをして、「はいはい、ごもっともです」と半身でいなすように本を閉じてしまった。  しかし、である。それが、40歳を迎えるころになると、本書の言説がまた違う趣きで響いてきたのだ。ちょっとした調べ物でたまたま手にしただけだったのだが、含蓄のある言葉の数々が瑞々しく心に刺さってきて、食い入るように読み進めてしまった。そして2015年、松下幸之助(パナソニック創業者)と渋沢の言説を対比してみようと改めて目を通してみて、「う~む、やはり、いい本だなぁ」と再認識した次第。折々の立場や境遇によって、同じ本でも感じ方が変わってくる。これも読書の醍醐味だ。  本書の終盤、渋沢は次のように言い諭す。 ――――――――――――――  正しい行為の道筋は、天にある日や月のように、いつでも輝いていて少しも陰ることがない。だから、正しい行為の道筋に沿って物事を行う者は必ず栄えるし、それに逆らって物事を行う者は必ず滅んでしまうと思う。一時の成功や失敗は、長い人生や、価値の多い生涯における、泡のようなものなのだ。 (中略)  成功や失敗といった価値観から抜け出して、超然と自立し、正しい行為の道筋にそって行動し続けるなら、成功や失敗などとはレベルの違う、価値のある生涯を送ることができる。成功など、人として為すべきことを果たした結果生まれるカスにすぎない以上、気にする必要などまったくないのである。 ―――――――――――――― “成功など、カス”とまで言うか……と若干白目になってしまう向きもあるだろうが、とても励まされる一節には違いない。本書には、ビジネスにおいて決して無くしてはならない物事の本質や、原理原則といったものに対する敬意に溢れた、真摯な言葉が充満している。日ごろ、即時的、刹那的な実用性を前のめり気味に追求したようなビジネス書ばかりを読んでいる人にこそ、ぜひ手に取ってほしい名著である。  世間の喧噪につい浮き足だってしまいがちな年の瀬に、家で身体を温かくしながら、じっくりと読み進めていきたい一冊だ。 【深読みビジネス書評】『現代語訳 論語と算盤』(ちくま新書) <文/漆原直行