数学科卒エンジニアが「食堂」を起業した理由

 東工大の数学科を出て、日本IBM、クックパッドでエンジニアとして働く。そんな輝かしいキャリアを積んできたエンジニアが会社をやめて起業したのは「定食屋」だった――。  今年9月に神保町に出店した定食屋さん「未来食堂」の店主、小林せかいさんはそんな経歴の持ち主だ。  そして小林さんの店、「未来食堂」は、傍から見ると劇的な転身にも思える「エンジニア⇒食堂開業」というキャリアと同様、飲食業界においては一風変わったスタイルの店になっている。  それは例えば、「ランチメニューは一種類のみ(日替わり)」であり、「あつらえ」であり、「まかない」であり、「一番乗りは500円」であり、「事業計画書全文公開」(http://miraishokudo.hatenablog.com/entry/plan)……などである。

「あつらえ」は「ハリウッドの原則」!?

 しかし、こうした「未来食堂」のシステムは、決して奇を衒ったものではなく、小林さんが既存の飲食店に感じていた疑問や、食材のロス率や回転率などに対する、エンジニアというキャリアならではの「最適解」なのだという。

「未来食堂」の小林せかいさん。高校時代は哲学科に進もうと思っていたが、卒業間近に理転して一浪で東工大へ。専攻は位相幾何

「ランチメニューを一種類にすることで仕込みも楽になるしロスも減ります。また、用意する食器や調理器具もそのメニューに合わせて絞れるので効率よく調理することができてランチタイムの回転率を上げることができます。開店2か月が経過した現在、ランチタイムは12席の店を私一人で4回転回すことも珍しくありません。  また、夜に提供するお客さんのその日の好みに併せてメニューにないものを作る『あつらえ』は、相手の希望をもとにその人のためのメニューを創り、誰もが『特別なもの』を食べられるオーダーメイドのシステムです。一見非効率に思えますが冷蔵庫にある食材を明記した上でお客さんに頼んでもらうシステムになっています。あるもので作るので、在庫を抱えるリスクが減るんです。メニューを増やすことがお客さんに投げるボールを増やすことだとすれば、『あつらえ』はお客さんにボールが当たるところまで来てもらう感じですね。  例えば、『ハリウッドの原則』(※1)というのはエンジニアの世界ではよく知られた話です。アプリからフレームワークを呼び出すのではなく、フレームワークが先にあって、それが必要に応じて個々のアプリのメソッドを呼び出すということをハリウッドの監督と役者の関係に喩えたものなんですが、未来食堂のシステムはこれに似ています。店の在庫や私の余力がフレームワークとしてあって、その上でお客さんの要望がその状況に合致するなら『あつらえ』られるというイメージでしょうか。お客さんの要望や行動をリクエストとして捉え、最適なフレームワークを組み立てることで質の良いレスポンスを効率的に返す。未来食堂は一見ITの皮を被っているようには見えませんが、裏にあるのはITシステム設計の考え方です」

理念の実現とマネタイズの両立

未来食堂には半月替わりで入れ替わる「本」が置かれている。あつらえ注文後の待ち時間はこれを読んで過ごすお客さんも

 一番乗りは500円というシステムについても小林さんは理路整然とこう説明する。 「これはランチのピークタイムを早めの時間から起こすことによって回転数を上げるという目的があります。一番乗りで安くなるというイベント感もあって口開けから早めにお客さんにいらしていただくモチベーションを提供できます。また、こうした特別な体験は感動を生みます。すると人に伝えたくなり、次回にご新規さんを連れて再来店してくれる可能性が高くなるんです」  また、50分の手伝いを対価に一食分を提供する「まかない」も、一見すると慈善事業的な印象を受けるが、それだけではないという。

バリバリの理系だが手作り感ある店の雰囲気。このQP人形も「“目”があると道行く人の意識に入りやすい」という理屈もあるとか

 「一度お客さんとしてお越しいただいたお客さんとは、たとえその方が一文無しになったとしても縁を切りたくない。そこで考えたのが『まかない』です。ただこれも、決して単なる『施し』のようなものではありません。『まかない』では50分の労働で一食分、すなわち900円の定食を食べることができます。しかし、未来食堂は人件費900円を払っているわけではなく、コストはあくまでも食材の原価のみです。しかも、ピーク時や閉店時などなど私が忙しい時間の労働力をピンポイントで得ることができます。そして、これも一種の感動体験になるため、『まかないさん』(『まかない』に参加した人)は未来食堂を気に入ってくれて、他の人を連れてくることにもなるんです」  小林さんは、こうして店側の「計算」とも言える部分も詳らかに語ってくれる。また、事業計画書や月々の収益、まかない用のガイドとして接客マニュアルも公開している。そんなオープンな姿勢にもやはりエンジニアとしての経験に裏打ちされているという。 「私にとって、IT業界でもっとも衝撃を受けたのは『オープンソース』という概念でした。オープンにして他の人の知識とのやり取りの中で進化していく。未来食堂もそうありたいと思っています」

誰かのための「サードプレイス」であること

 こうして話を聞くと、すべてのことについてあたかも数学で証明をするかのようにロジカルに答える小林さんだが、この未来食堂の根底にあるのは極めてシンプルな「想い」だ。 「私が『将来私は何かお店をやるんだろう』と感じたのは15歳の頃、初めて喫茶店に行ったときでした。当時、学校の自分と家の自分という狭い世界にいた中で、生まれて初めてそのどちらでもない自分を提供してくれる『サードプレイス』(※2)という概念に接し、衝撃を受けたんです。その時から、いつかこういう店を持つんだろうなと思っていました。”こういう店”とは、言語化すると『誰もが受け入れられ、誰もがふさわしい場所』というもので、これは『未来食堂』のコンセプトになっています。『あつらえ』にしても、決して凝った料理ではないけど、お客さんのその時の要望に沿って作る『特別のもの』であるんです。  私にとって、未来食堂の一見変わった仕組みは、もちろんエンジニアとしての経験も活かされていますがすべての原点は、かつての私自身のような人に『誰もが受け入れられ、誰もがふさわしい場所』を提供したいために考えたシステムなんです」 【未来食堂】 千代田区一ツ橋2−6−2 日本教育会館B1(http://miraishokudo.com/) 未来食堂事業計画書(http://miraishokudo.hatenablog.com/entry/plan) <取材・文/HBO取材班 撮影/山川修一> ※1 フレームワークを用いたシステム設計の要となる「制御の反転」を、絶大な権力を持つハリウッドのプロデューサーと使われる側の役者の間に存在する「「Don’t call us, we’ll call you(お前から連絡してくるな、我々から連絡する)」という関係に喩えて名付けられた原則 ※2 アメリカの社会学者、レイ・オルデンバーグが提唱した考え方で、生活を営む「ファーストプレイス」、職場など長く時間を過ごす場所「セカンドプレイス」とともに、創造的交流を生むコミュニティの要になるような場所が現代社会には重要だとすること。