安倍政権を支える「日本会議」と安倍首相の筆頭ブレーン「伊藤哲夫」を結ぶ「生長の家政治運動」――シリーズ【草の根保守の蠢動 第19回】

出典/YouTube「チャンネルAJER」(https://youtu.be/Yo0F_A6Ioog)

 前回触れたように、伊藤哲夫は、新興宗教「生長の家」のパンフレットを27年の歳月を経て自分の名義で再出版している。確かにこれだけを根拠に伊藤哲夫と「生長の家」との関係を立証するのは難しいかもしれない。かなり無理はあるものの、好意的に解釈すれば「自己の政治的主張に合致する書籍を、今や政治運動から撤退した宗教団体がかつて出版していたため、交渉の末、自己の名義として再出版した」可能性も排除できないからだ。  ここで、伊藤哲夫の経歴を振り返ってみよう。 「日本政策研究センター」公式サイトに「日本政策研究センターとは」というページがあり、そこに伊藤哲夫のプロフィールが掲載されている。その冒頭部分を抜き出してみよう。 -------------------------  伊藤哲夫(いとう てつお) 日本政策研究センター代表。政治アナリスト。  昭和22年、新潟県生まれ。新潟大学卒。国会議員政策スタッフを経て、昭和59年、日本政策研究センターを設立、所長を経て、平成20年より現職。政策立案・政策提言に携わるかたわら、政治評論の執筆および講演活動を展開。同時に、自民党保守系国会議員と連携しつつ政策実現に取り組む。各地の地方議員勉強会等にも積極的に赴く。 -------------------------  このプロフィールをそのまま信じれば、新潟大卒業後、国会議員政策スタッフを経験し、39歳で「日本政策研究センター」を設立したことになる。  だがもうこの段階で、このプロフィールの記述はおかしい。 「日本政策研究センター」が設立されたのは、昭和59年つまり1984年。一方、国会法が改正され「国会議員政策担当秘書」制度が創設されたのは1993年。「日本政策研究センター」の設立より10年も後のことだ。それ以前に国会議員の秘書やスタッフに「政策担当職」と冠のつく役職はない。つまりこのプロフィールにある「国会議員政策スタッフ」という肩書きは、極めて曖昧模糊としたものなのだ。おそらく、「国会議員政策スタッフ」という言葉で、伊藤哲夫は何かを隠しているのだろう。

伊藤哲夫の「過去」

 前掲のプロフィールによれば、伊藤哲夫が「日本政策研究センター」を設立したのは1984年。つまり、「政策スタッフ」だった伊藤哲夫の経歴は1984年を境に大きく変わったということになる。  1984年を境に大きく変わったのは伊藤哲夫の経歴だけではない。この年、一つの大きな潮流も節目を迎えていた。  これまでこの連載でも何度か触れたように、今現在の「生長の家」教団は政治運動から完全に撤退している。しかし撤退以前の「生長の家」政治運動は、政界内外で大規模に展開されており、玉置和郎 村上正邦という当時の自民党総裁選にも影響を及ぼす有力な国会議員を擁するまでに至っていた。  しかし、「生長の家」はその政治運動の絶頂期に突如「生長の家政治連合」ならびに「生長の家政治連合地方議員連盟」の活動を停止する。そのタイミングがまさに、1984年の前年、1983年10月なのだ。これまで「生長の家」の動員力に頼っていた各種運動は突如の撤退宣言により大混乱に陥ったという。(※1,2)  時系列としては、「伊藤哲夫は『生長の家』が政治運動から撤退したことを契機に『日本政策研究センター』を設立した」とも見えなくもない。もしそうであれば、伊藤哲夫は1984年以前に「生長の家」政治運動に深く関わっていたはずだ。そうでなければこれほど綺麗にタイミングを合わせて一本独鈷になる必要性もないだろう。  しかし、まだ状況証拠だけである。「生長の家」政治運動華やかりし頃のパンフレットを自分名義で再出版した事実も、「生長の家」政治運動の崩壊直後に独立したという事実も、あくまで傍証に過ぎない。確たる証拠が必要だ。  もし、本当に伊藤哲夫と生長の家に関連があるなら、1984年以前の教団資料に彼の痕跡があるはずだ。それが見つかれば、確たる証拠となる。 「生長の家」は別名、「出版宗教」とも呼ばれるほど、膨大な出版物を出すことで有名だ。1984年当時の生長の家は、月刊の機関誌だけでも『生長の家』、『白鳩』、『光の泉』、『精神科学』、『理想世界』、『理想世界ジュニア版』と6種もの月刊誌を出版していた。(※3)それぞれ毎月最低でも80ページ近い分量を持っている。一年間で、80ページx6誌x12か月、都合5760ページはある計算だ。伊藤哲夫は1947年生まれでそのままストレートに大学を出ていれば、1969年に大学を出ていることになる。69年から84年までなので、15年間。そこで、この15年間の間に出された「生長の家」の機関誌全て――つまり最低でも10万9440ページをめくり、伊藤哲夫の名前を探す調査を行った。  そしてついに、伊藤哲夫が「生長の家」に残した足跡に辿り着いた。 ⇒【後編】「ついに見つけた『安倍首相の筆頭ブレーン』と『生長の家政治運動』の繋がりの証」http://hbol.jp/65090 ※1 井上順孝編 1996 『新宗教教団・人物事典』 弘文堂 ※2 伊藤達美 1988 「『生長の家』はなぜ自民党を見放したか」 『財界展望』 1988年11月号 88-93 ※3 生長の家本部 広報・編集部編 1989 『生長の家は伸びる-両軸体制ハンドブック-』 宗教法人「生長の家」 <取材・文・図版/菅野完(TwitterID:@noiehoie)>
日本会議の研究

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