「砂川判決は集団的自衛権容認とは関係ない」地元住民が語る

 集団的自衛権の行使を認める安保法が今年9月、国会で可決成立した。これまで行使が認められていなかった集団的自衛権だが、容認の根拠として国は「砂川判決」を持ちだした。米軍基地拡張計画に反対した「砂川闘争」をめぐる最高裁判決だ。しかし、当時を知る地元住民は「判決は集団的自衛権とは何の関係もない」と話す。

先祖伝来の土地を基地から守ろうとした

砂川闘争の様子を伝える写真。「砂川平和ひろば」に展示されている

 砂川闘争は今から60年前の1955年、在日米軍立川基地(東京都立川市)の滑走路拡張計画に反対した住民運動だ。 「父は地元で16代続く農家でしたが、基地拡張で先祖伝来の土地を失ってはならない、との思いで闘争を始めたのです」。闘争の中心を担い、著書『砂川闘争の記録』を記した宮岡政雄氏を父に持つ福島京子さんは当時を振り返る。  砂川闘争は「国民が主権者である」ことをよりどころに、拡張計画に立ち向かった。警官隊が振り下ろす警棒に打たれ、血だらけになりながらも座り込みを続ける非暴力の姿勢は当時、大きな反響を呼んだという。計画は挫折し、立川基地の機能は程近い横田基地に集約された。  砂川判決は、フェンスを倒して基地に入った住民らを国が訴えた裁判だ。東京地裁は1959年、在日米軍の駐留は憲法9条に違反するため無罪との判決を下した。いわゆる「伊達判決」だ。これに対して国は二審を飛び越して最高裁に直接訴え(跳躍上告)、最高裁は一審を覆し住民らを有罪とする判決が確定。これが「砂川判決」だ。 「砂川判決が下った当時、世の中は集団的自衛権の是非という前に、二度と戦争を繰り返してはならないという雰囲気が強かったのです。そもそも自衛隊も創立して間もない頃で、判決文のどこにも集団的自衛権のことは書かれていません。つまり砂川判決は集団的自衛権と何の関係もないのです」(福島さん)

フェンスがある景色は当時のまま

 福島さんは、父らが守った土地の一角に「砂川平和ひろば」を開設。写真や資料を展示し、当時の記憶を今に伝える。  現在、米軍が去った後の立川基地には自衛隊が駐屯。一方で広大な敷地が国に返還され、昭和記念公園や国ほかの公共施設、一部は商業地域などに活用されている。

かつて拡張計画があった場所。道路向こうに立川基地がある

 砂川闘争は「保守対革新」ではなく、地域まるごとの運動として始まった。立ち上がった地権者は拡張予定区域内の農家全130戸。その後の切り崩しにより、最後まで反対したのは23戸まで減った。地域が賛否に分裂する光景は、後の原発立地地域などでも繰り返されることになる。当時小学生だったという福島さんは「学校では拡張計画のことはタブーだった」と振り返る。  砂川平和ひろばの正面からは、フェンス越しに立川基地が見える。福島さんには、その光景が米軍基地だった当時と同じに見えるという。「砂川闘争に関わった人は、まさか砂川判決が集団的自衛権の根拠に持ち出されるとは思いも寄らなかったはずです」と福島さんは話している。 <取材・文・撮影/斉藤円華>