今国会で「取り調べの可視化実現」が先送りに。参院民主党の罪は重い

―― 江川紹子の事件簿 ――

可視化制度も日本版司法取引も先送り

最高裁判所

最高裁判所/裁判所HPより

 取り調べの録音・録画(可視化)の制度化や日本版司法取引の導入を含む刑事訴訟法等改正法案について、今国会での成立が見送られることになった。  民主党は、衆議院では法案の一部修正と付帯決議で折り合って賛成したものの、参院ではヘイトスピーチ規制法案の優先処理を求めて、刑訴法改正法案の審議入りに応じてこなかった。結局、ヘイトスピーチ法案は与党の同意を得られず廃案となる見込みで、そのうえ可視化も先送り。民主党の戦略の稚拙さが際立つ結果となった。 「極めて遺憾だ」――可視化の実現に長年尽力し、「ミスター可視化」と呼ばれる小坂井久弁護士は、落胆を隠さない。 「元々は、民主党政権の時に、可視化の立法をしておかなければならなかったのに、警察等の抵抗も激しくて、無理だった。法制審議会を通すという形を取る以外、改革にはたどり着けなかった。それがようやく到達しようという時に足踏みするとは、極めて残念だ」  この法案は、法制審議会特別部会の議論を経て作成され、今年3月に国会に提出された。 ①裁判員裁判対象事件と検察の独自捜査事件について、取り調べの全課程の録音録画を義務づける可視化――のほか、 ②被疑者国選弁護制度の対象拡大、検察官の手持ち証拠のリスト開示などの弁護活動の充実化を図る改正――に加え、 ③被疑者・被告人が他人の犯罪を申告した時に、刑の減免などを得られる合意制度(日本版司法取引)の導入 ④捜査機関による通信傍受の範囲拡大や手続きの簡略化――など捜査手法の拡充を図る内容がセットになっている。  要するに、冤罪防止を求める声に応えつつ、可視化に激しく抵抗する警察を説き伏せるために、捜査手法の拡充を盛り込んだ。このバランスを取るのに、法務省の担当者は腐心したようで、 「ガラス細工のように慎重に作り上げた法案。なので、どこかを修正すれば、そのバランスが崩れてしまう」とも言う。

捜査機関の焼け太り、無罪請負人も反対

 一方で、捜査側への配慮が大きすぎるとして、「冤罪や証拠捏造などの問題が相次いだための法改正のはずなのに、これでは(捜査機関の)焼け太りだ」との批判もされている。新たな捜査手法のために、新たな冤罪が生まれる懸念もある。  特に、③の司法取引は、他人を事件に引きずり込むタイプの冤罪を作りかねない。  刑事事件の経験豊富な弁護士の中には、今でも密室の取調室の中で、司法取引的なやりとりが行われている現実を考えると、「取り引きが形に残るようになるだけ(法案は)マシ」との評価をする人もいる。  その一方、多くの刑事事件を担当し、“無罪請負人”の異名もとる弘中惇一郎弁護士は、 「自分の罪を申告するならともかく、他人を巻き込む『司法取引』には害悪が大きすぎる。これをどういう根性の人たちが運用するかを考えると危ない」と指摘。「あらゆる制度改革には慎重であるべき」として、法案には反対の立場だ。  ④については、もし今後、共謀罪が導入されるようなことになれば、実際の事件がなくても、警察が幅広く国民の通信を盗聴することが可能になるという懸念もされている。  そのため、「むしろ可決されなくてよかった」「司法取引や盗聴拡大があるなら、今のままの方がマシ」などという声は少なくない。さらには、この法案で可視化が義務化されるのは、全事件の2~3%程度にすぎないことを挙げて、「こんな法律なら、ない方がマシ」との声もある。  しかし、本当にそうなのだろうか。  確かに、法案は大いに問題がある。bestどころか、better、goodの評価もつけられない。  司法取引に関しては、弘中弁護士が指摘する通りで、法がもたらすリスクは小さくない。けれども、可視化を法制化する機会を、逸してしまっていいのか。密室での取り調べの状況が記録に残らないというworstな現状に風穴を開けるために、他に方法がないのであれば、あえてworseの選択をすることも、政治には必要なのではないか。

Worseの選択で、可視化を活用せよ

 この法案は、一部の事件とはいえ、取り調べの全課程を録音録画が義務づけられている。警察が、都合のいい部分だけを選んで録画する、あるいはストーリーを被疑者に教え込んでから録画するというようなことはできない。任意同行の場面などが省かれる懸念はあるが、取り調べのすべてが記録されるというのは画期的だ。  いったん開いたこの風穴は、大きくなることはあっても、それをふさぐことはできないだろう。可視化によって、取り調べのやり方が大きく変わっていくことは間違いない。  刑事事件のスペシャリストとして知られ、間接証拠による有罪認定についての画期的な最高裁判例を引き出した後藤貞人弁護士(大阪弁護士会)も、一部であっても、可視化が実現することの意義は大きい、として、こんな話をする。 「大阪府警は、特にヤクザの事件などは、殴る蹴るがひどかった。弁護人としては、どうしたら殴る蹴るをさせないか……が大変だった。それが、可視化論議が進展してきて以降、ぴたっとなくなった。論議が深まっただけで、それだけの効果があった。実際に、法律で義務化されればその影響は大きい」  適正な取り調べをしている限り、可視化は被疑者・被告人の側に有利に働くとは限らず、むしろ捜査機関の側にとって有益な材料にもなる、ということに、警察もいずれ気づくだろう。検察は、すでにそれに気づいて、可視化をうまく活用しようとしている。  国民にとって大事なのは、その制度が警察・検察と被告・弁護側のどちらに有利か、ということではなく、人権が守られつつ真実を発見するためには何が有効か、だ。その点、可視化は客観的な記録として、双方の目的に寄与する。  衆議院では、法務委員会が70時間もの時間を費やして、この法案の審理を行った。民主党は当初、慎重な姿勢だったが、最終盤で維新の党とともに与党との修正協議を行い、法案の一部を修正したうえで、他の事件でも「できる限り行うように努める」などとする附帯決議をつけることで合意した。  先の小坂井弁護士は、この附帯決議を次のように評価する。 「たかが附帯決議というかもしれないが、ここは法制審議会でも最後まで折り合えなかった点。それを、国会で議論があり、一定の合意があったということは、実務上、すごく意味がある。これまで、弁護士が警察に可視化の申し入れをする時にも、何も根拠になるものがなかったが、これでとっかかりができた」

リアリズムに根ざした政治を

 百点満点からはほど遠くても、現状を鑑みれば、何歩かの前進になる。それを、弁護士が現場で存分に活用し、さらに捜査機関の努力があれば、さらなる前進もありえよう。  参議院で議論を深め、さらに一歩でも二歩でも前進して(あるいはリスクを少しでも減らして)、新たな制度のスタートを切れれば、さらによい。そんな期待もあったのに、参議院では民主党の抵抗によって、審議に入れなかった。ヘイトスピーチ対策は、とても重要な問題であることはよく理解する。だが、だからといって、村木厚子さん(現厚労次官)に対する無罪判決や検察官による証拠改ざん事件から5年かかって、ようやく可視化が形になろうとする法案を、ここまで軽んじる姿勢は容認できない。  この機会を逃して、可視化を実現する具体的で現実的な方法を、民主党が持っているなら、それもよいだろう。しかし、そんなものがあるならば、民主党政権の時に、可視化は実現していたのではないか?!  先の後藤弁護士はこうも言う。 「僕らにとって、あるべき姿から見ると10分の1、100分の1の法案かもしれない。これができれば万々歳なんて、誰も言っていないし、批判をすることは大事だ。でも、前進は前進。だいたい、自民党政権で僕らにとって素晴らしい法律なんてできるわけない。それはしょうがない。でも、だからといって、『こんな法律だったらない方がマシ』というのは、リアリストの言うことではない。僕らは実務家なんで、とれるものは少しでも取る、というのが大事なんです」  継続審議となるこの法案を、野党は秋の臨時国会で、問題点を指摘し尽くし、さらなる改善をするべく尽力したうえで、成立させてもらいたい。改善できなかった点は、その後も批判し続け、それによってリスクを最小化する。この法案には、三年後の見直し規定がついているので、その時期には、問題点が修正されてよりよい法制度にするための準備を進める。  地味かもしれないが、少なくとも刑事司法の分野で必要なのは、そういうリアリズムに根ざした政治である。【了】
【江川紹子(えがわ・しょうこ)】
大火砕流に消ゆ

大火砕流に消ゆ

1958年、東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒。1982年~87年まで神奈川新聞社に勤務。警察・裁判取材や連載企画などを担当した後、29歳で独立。1989年から本格的にオウム真理教についての取材を開始。「オウム真理教追跡2200日」(文藝春秋)等、著書多数。8月に、「大火砕流に消ゆ」(Kindle版)発売。菊池寛賞受賞。行刑改革会議、検察の在り方検討会議の各委員を経験。オペラ愛好家としても知られる。 記事提供:ムーラン (http://www.mulan.tokyo/) 新世代のビジネス・ウーマンのためのニュースサイト。「政策決定の現場である霞が関、永田町の動向ウォッチ/新しいビジョンを持つ成長途上の企業群が求める政策ニーズを発掘できるような情報/女性目線に立った、司法や経済ニュース」など、教養やビジネスセンスを磨き、キャリアアップできるような情報を提供している ※本記事の関連記事も掲載中 【江川紹子の事件簿】川崎市中一殺害事件 http://www.mulan.tokyo/article/33/