「マクドナルドの時給1500円デモ批判」がおかしい労働経済学的な理由

Fight for $15

Fight for$15キャンペーンは36か国96都市に広がった(画像はオフィシャルサイト)

 4月15日に世界的な反格差キャンペーンとして行われた「ファストフード店の時給を1500円にしろ」という文言を掲げた若者たちのデモ。  そのキャンペーンを巡ってネットには数多くの賛否の声が湧き上がった。 ※参照 「ファストフード店の時給を1500円にしろ」は非現実的か? 世界の常識か?」(http://hbol.jp/35495)  福島大学教授で労働経済学を専門にする熊沢透氏もまた、ネットにおいて「時給1500円」を否定する声のほうが幅を効かせていることに違和感を覚えたという。

中長期的には賃金引き上げで労働需要は減退しない

「賃金引き上げ策への批判の論拠としてしばしば出されるものに『賃金水準の上昇が労働需要を減退させる』というものがあります。これは、昔の『賃金基金説』的な発想と似ています。確かに賃金水準の上昇が労働需要を減退させるかどうかというと、短期的にはそれはあり得ます。そして個別経営を圧迫する可能性もあるでしょう。  しかし、影響力を持った経済学では、マーシャル~ケインズへと発展する段階で、賃金基金説はきちんと否定されています。  というのも、マーシャル以降の経済学では賃金(となるマクロの資金量)は「基金」(つまりストック)ではなくフローとかんがえるので、賃金上昇は生産性の向上や需要の拡大を通じてさらなる投資と雇用を生んで、中長期的にはむしろ労働需要の拡大につながる結果となる可能性を展望します。   私は賃金上昇→需要拡大を想定する立場ですから、非正規労働者の賃金はもっと高くしてもいいと考えています。社会的な公正さという観点からもそうですし、効率性の観点からも、実はそうなんです」

「能力さえ上げれば誰でも高賃金」というお花畑的発想

 また、いわゆる「意識が高い層」や「自己責任論信奉者」が好む<「能力」があがればだれでも高賃金になるという発想><販売する商品の単価が安いとそこの従業員は低賃金になるほかない>などという考えについても異を唱える。 「そもそも、”能力”を高めておけば、その労働者は必ず高賃金が得られるような雇用機会に恵まれ、高賃金が支払われるのでしょうか。そんなことはありません。雇用機会への配当と賃金決定において、”能力の高さ”がなんらかのプラスの効果をもつことは否定しませんが、それは決して充分条件ではありません。  どこでどんなふうに雇われるか、いくらの賃金が支払われるのかはもっと多様な要因で決まります。運、不運などの要素も影響してくる。  それゆえ、賃金上昇を求める非正規労働者に対して“お前が自分の費用負担で能力を上げればいい”というのは、非現実的で冷淡であるだけでなく不確実な投機によって問題を自分で解決せよとする極めて無責任かつ無根拠な意見。逆に言えば、<『能力』を向上させれば処遇は改善する>と信じているのならば、ある意味お花畑的な考えです。  ちなみに、賃金の決まり方・上がり方については賃金学説史上大きく分けてふたつの系列があります。広義の「能力」によって決まる・上がるという系列と、年齢階層別生計費によって決まる・上がるという系列です。両者は現実世界において必ずしも互いに排他的な関係にあるというわけではありません。ただ、どちらの説明力が高いか、という問題です。制度派で歴史的アプローチをする労働研究者は、総じて生計費説のほうが相対的にいって説得力があると考えます。  また、<販売する商品の単価が安いとそこの従業員は低賃金になるほかない>という考えですが、そもそもハンバーガーの値段、ハンバーガー屋さんの客単価の水準それ自体は、ハンバーガー店の店員の低賃金を規定する要因にはなりません。当然のことです。『1個100円の製品を作る/売る企業』と『1個100万円の製品を作る/売る企業』を比べた場合、賃金の支払い能力は後者のほうが必ず高いということは決して言えません。労務コストの構成と水準、換言すればつまり賃金の支払い能力は、規模や資本構成や売り上げや利益や労務管理方針によって決まるのであって、製品単価そのものの差からは説明できません

雇用の安定や賃金水準向上は経済成長の「果実」ではなく「土壌」

 それにしても、非正規雇用労働者の賃上げ要求を、経営者ならばまだしも、自らも被雇用者であるはずの一般人までもがこぞって否定するような風潮は、なんとも殺伐としたものに思えるし、結果的に社会全体を疲弊させるのではないだろうか。 「『保障』という考え方は、『優しさ』や『ゆとり』とかいう以上に、持続可能な社会経済体制のためのビルトイン・スタビライザーのようなものです。福祉や雇用の安定や賃金・生活水準は経済成長の”果実”であるというのは、主に低成長期に強調される発想です。保障水準が切り下げられるから、その言い訳として『だって景気が悪くなったのだから、高度成長は終わったのだから』ということですよね。しかし、福祉や雇用の安定や賃金・生活水準は経済成長の”土壌”であるということも事実なのです」 <取材・文/HBO取材班>