原発事故を哲学の視点から考える「原子力の哲学」戸谷洋志さんインタビュー

原子力をめぐる哲学者の考えを紹介

戸谷洋志さん

戸谷洋志さん

 哲学者は原発と核兵器をどのように論じたかーー。  大阪大学特任助教で哲学研究者の戸谷洋志さんの新著『原子力の哲学』(集英社新書)。マルティン・ハイデガー、ハンナ・アーレント、ジャック・デリダなど7人の哲学者たちの原子力をめぐる思想が明快に整理されている。キーとなる概念をひとつひとつ丁寧に読み解きながら、人々の原子力との向き合い方のヒントを提示している。  東日本大震災から10年の節目の時期に刊行したかったと語る戸谷さんに、哲学者たちの思想から学べることについてお話を聞いた。

原発事故を「歴史化」する段階に

――戸谷さんは震災の原発事故をきっかけに原子力に関心を持ったそうですね。 戸谷:当時、大学4年生だったんですが、計画停電の時に千葉県の自宅の近所を散歩したんです。そこで真っ暗闇になった街中を見て、一気に機能不全に陥った社会に異様さを覚えました。当たり前だと思っていた日常が原子力に依存していたこと、自分が原子力の支配の構造に組み込まれた当事者であることを強く意識しました。  本当に全世界的に記憶されるような、世界史的な出来事が起こったと思いました。さまざまな知識人の方も原子力について論じていた。ただやはり数年が経つと、ホットなトピックでなくなってしまいました。生々しかった原発の記憶が、急速に忘れられているように感じます。  今考え直すことは、震災直後とはまた違う意味を持っています。あの出来事が私たちの社会をどう変えたのか。どのように記憶していくべきなのか。歴史化していく段階に入ったと思うんですね。そこで原子力と人間の関係を哲学の視点で考えたいと思いました。それがきっと社会のためにいいことだろう、もっと大きい言い方をすれば、将来の原子力の破局を避けるのに少しでも寄与するんじゃないかと思ったんです。 ――哲学の視点から考えるのが必要なのはなぜでしょう? 戸谷:原子力の政策は、民主主義的なプロセスで決めなければいけません。市民の投票行為、場合によってはデモなどの社会運動であるかもしれません。  これは原子力について、人々が判断を下していかないといけないということです。しかし、20世紀の哲学者たちの思想に共通しているのは、原子力については判断を下すこと自体が難しいということです。それが原子力の脅威なんですね。  たとえば、原発の放射性廃棄物の放射線は目に見えません。だからそれはリアルなものとしては体験できない。また、自然に無害なレベルまで放射線量が下がるのに、およそ10万年がかかると言われています。  本当にSFのようにリアリティを欠いた想像不可能な世界の話なわけです。そして人間はリアリティを欠いたものに対して、現実的な判断を下すのが難しい生き物だと思うんですね。本書で取り上げたハンナ・アーレントは、公的空間で人々が対話で意思決定をするためには、共通のリアリティを持たなければといけないとしています。  僕はこうした話を置き去りにしたまま、「脱原発か原発推進派か」と二者択一を突きつける言説は非常に危ないものだと思います。では、どうやって原子力について考えるといいのか。その議論の土台を作るために、哲学者たちの思想を読み解くことで、何か見通しが見えるのではないかと思いました。 ――リアリティのなさについては、ギュンター・アンダースの「プロメテウス的落差」という概念がありました。広島で投下された原子爆弾は10万人以上を殺害した。明らかに想像力の限界を超える数字だけれど、人間は製造する能力を持っている。その想像力と制作能力の「落差」を克服するためには、SF文学などのフィクションが必要だとしていました。 戸谷:想像力を鍛えていくこと。つまり、10万人以上の死をありありと想像できる力を獲得することが重要だと言うんですね。そのためにフィクションがある。  原子爆弾の鉄製のラグビーボールのような形を見ても、10万人以上を殺すことは想像できません。しかし、それを怪物のようなものとして描くことはできます。たとえば、日本の作品ではゴジラやナウシカの巨神兵がそうだと思います。  原子力が人類に対して持っている意味を表象しようとすると、ゴジラやナウシカの巨神兵のような存在になる。そこで初めて人間にとって原子力とは何かが判断できるようになる。原子力の破壊力に対して、人間の想像力が追いついてくるからですね。そうした意味で、フィクションには大きな可能性があるのではないかと思います。
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「領域横断的な対話」が必要
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