貧しい白人を描いた『ヒルビリー・エレジー』は、本当に「トランプ支持者の物語」なのか
NETFLIXにて昨年11月末から配信中の『ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌』は、J・D・ヴァンスの同名エッセイを原作とした自伝的映画である。主人公のヴァンスは「ヒルビリー」と呼ばれる、都市部のエリートからは蔑視されるような田舎の白人貧困階級出身。その境遇を抜け出そうと努力し、弁護士となり、一流法律事務所に就職する道が開けたとき、母親の問題が持ち上がり……というストーリー。
この映画も原作エッセイも、しばしば「トランプを支持するような白人貧困層とはどのような人々なのか、この映画を見れば(この本を読めば)わかる」という謳い文句で宣伝されている。しかし、この作品は本当に、そのような文脈によって読めるのだろうか。
原作エッセイの副題「アメリカの繁栄から取り残された白人たち」は、邦訳オリジナルであり、原作の副題は”A Memoir of a Family and Culture in Crisis”、つまり「危機に瀕した家族と文化の回顧録」である。近代化と産業化によって開拓時代の「古き良き」ヒルビリーの文化は次第に失われていき、またその産業すら衰退してしまったアメリカ中西部では、問題を抱えた元ヒルビリーの白人家族が、希望を失った生活をしている。
しかし、かつての文化のすべてが失われたわけではない。都市部のエリートにはないヒルビリーの精神は、いまだ家族の中に生き続けている。これが原作エッセイでヴァンスが伝えたかったことの骨子であり、映画版はその骨子だけを忠実に抽出しているといえる。
逆にいえば、原作ではある程度書かれていたジャーナリズム的な視点は、映画では一切省かれている。最初から最後まで、ヴァンスの家族の物語にスポットがあたり、社会問題についてはせいぜい示唆的なかたちで描かれるに留まるのだ。
しかもその描かれ方も、とうていドナルド・トランプ支持とは結びつかない。原作者ヴァンスには、どん底の環境から努力によってのしあがった者に特有の、新自由主義的傾向がある。エリート層への反抗心も確かにある。映画では、彼は都市部エリートの一人に「レッドネック」と呼ばれて激高するシーンがある。
しかし一方で、ヴァンスはまったき反エリートではない。原作エッセイの結論として彼は、社会にもいろいろ問題はあるものの、貧困の白人は自分たちの不遇を人のせいにせず、自助努力によって変わらなければならないと述べるのだ。
他方でヴァンスは、無情で冷酷なネオリベともいえない。ヴァンスの母親は、新自由主義的な人間観からみればどうしようもない人物だ。何度手を差し伸べても、失敗を繰り返す。クスリを止められず、何度不幸になろうとも、禄でもない男と恋に落ちてしまう。助けようとする相手をことごとく拒絶し、問題を自ら悪化させる。ヴァンスは、その母親に何度も苛立ちながらも、結局は見捨てられず、最後には助けてしまう。そうした家族の情愛や「絆」を、「ヒルビリー」という特定の文化ミリューに結びつけて、物語は終わる。
もちろん私たちはこの物語を単に美談として受け入れるわけにはいかない。物理的に困難な状況に置かれた人々は、しばしば精神面でも困難を抱えている。それをケアする負担は結果的に近親者に押し付けられてしまっており、それを美談とするのは見る人によっては「呪い」と映るかもしれない。何かといえば暴力に訴えるような「粗野な」文化は、ヴァンス自身ものちにアンガーマネジメントに苦しむことになるなど、ひとつの文化として尊重するには実害を孕んでいる。行政が困難を抱える人々を救いきれていない問題は、映画の中でも描かれている。
しかしこうした論点については、映画において掘り下げられることはない。それが悪いというのではない。一つの家族の歴史を当事者の主観によって描写することも、それはそれで価値があるし芸術作品たりうる。だがその歴史を客観的に見たうえで浮上してくる様々な気づきに関しては、映画外で改めて考えるしかない。
原作エッセイでは、こうした社会問題についてのヴァンス自身の観察と見解が部分的に語られている。ヴァンスは、民主党が推進している給付行政だけでは、貧困層が抱えている精神的な問題は解決できないと主張している。フード・バンクの「不正受給」も実際に存在していると彼は指摘する。ヴァンスによれば、まともな生活を送れず、子どもの教育にも金をかけないこうした階層に福祉を与えても貧困の再生産は止まらない。
しかしだからといって、ヴァンスは給付の必要性自体を否定するわけではない。給付の代わりに雇用をあてがう共和党的政策を支持しているというわけでもない。なぜなら、原作の中では、比較的条件がよい仕事にせっかく就いたにも関わらず、1週間ほどで投げ出してしまう人々のことについても、言及されているからだ。貧困層は(自分のように!)自分自身で、どこかで生活態度を改める決意をしなければならない。もちろん単独でそれが難しいことは理解している。重要なのは、きっかけとなるような「出会い」である。ヴァンスの場合は、彼の祖母が母親と引き離して教育を与えてくれたことによって「成長」するきっかけを掴んだ。従って、貧困層に必要なのは、(自分のように!)自ら変わる気概とそれを助ける周囲の人々のサポートである。これが、『ヒルビリー・エレジー』で主張される彼の持論である。
社会保守主義者を自認し、「自助」と「共助」を重視しつつ「公助」を否定しないヴァンスの主張は、現代日本で言うなれば「古き良き自民党」というよりは「人間の顔をした橋下徹」と呼んだほうがよいかもしれない。こうした行間も含めると、映画『ヒルビリー・エレジー』は、論争的な問題を提示した作品だといえるだろう。
滅びゆくアメリカの家族と文化の物語
美しい物語の中にある社会問題
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