追悼・宅八郎。元担当編集の記憶に今も残る、彼の言葉

95年1月の週刊宅八郎第4回

95年1月の週刊宅八郎第4回

「週刊宅八郎」連載終了から四半世紀後の訃報

 12月3日のTwitterで宅八郎さんが8月に亡くなられていたという知らせが飛び交った。  筆者は、宅八郎さんが94年〜97年まで(途中休載期間あり)週刊スパで連載していた「週刊宅八郎」の担当をしていたことがある。「担当をしていた」というと聞こえはいいが、実際のところ風俗情報誌で素人レベルの仕事をしていただけの編集キャリアなどほとんどない23歳の若造が、誰もなり手がいなかった宅八郎の雑用係をうまいこと押し付けられた、という感じだったかもしれない。  ただ、ペーペーのド新人だった私にとって、この連載担当期間は辛いながらも様々なことを教えられた期間だと思っている。  宅八郎さんとスパは、もうご存知の人もほとんどいないかもしれないが、さまざまな確執を経て決別してしまった関係にあった。だから私も、「憎きスパの人間」の一部と思われていたのだろう、連載打ち切りになって以降は、完全に関係は断絶してしまっていた。ただ、この一連の騒動について書いた彼の著作には私の名前は処刑対象として名前は挙げられていなかったように記憶している。  世間では、難しい人だという評価ならいい方で、危険なストーカーのような扱いをされていた。実際、「復讐」という彼の芸風は、恐ろしいものではあった。一度標的にすると、住んでる家の近所に引っ越して監視するくらいのことをしていたので、それは恐ろしいものだったし、「標的」となった人やそのご家族にはたまったもんじゃないのは当然だ。その手法は「ネタ」として許容できる範囲を超えていたものがあったのは間違いないだろう。

徹底していたセルフプロデュース

 「復讐」の手法だけではない。長髪に眼鏡、不気味な笑い方にマジックハンド。「キモいオタク」を体現するその風体は、だからこそ様々なメディアに取り上げられる存在になったとはいえ、強烈なインパクトだった。  そのトレードマークとなっていたマジックハンドは最初から持っていたわけではない。私が担当する「週刊宅八郎」の3年ほど前にやっていた連載「イカす!オタク天国」の担当者が、ある時、とあるグラビアモデルの撮影時に、肌に触れている絵面を所望する宅八郎さんと嫌がるモデルの間に立たされた挙句、苦肉の策で持ってきた小道具だったそうだ。うまいこと功を奏して、宅さんのニーズとモデルさんの拒絶を両立させたマジックハンドだったが、宅さんはいたく気に入ったようで、その後彼のトレードマーク、「オタクのギミック」として紙袋とともに長く活躍することになったのだった。  また、実際の彼はファッションにも気を遣っており、ポールスミスなどを愛用していた。つまり、あの外見は、自分のキャラクターを設定して、かなり綿密にセルフプロデュースしていたのである。  容貌だけではない。果たして彼は本当に危ない、恐ろしい、攻撃的で粘着質の人間だったのかというと、少なくとも私にはそう思えない。おそらく、短い期間でも彼と「仲良い」存在になってた人は同じように感じてくれる人は少なからずいるのではないだろうか。
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「僕はね、“ライターを使う“っていう編集者が本当に嫌いなんだよ」
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