第二次世界大戦と野球について語られるとき、
野球は戦争の被害者であるとされることが多い。戦時中、野球が外来のスポーツとして弾圧されていたことはよく知られている。また「戦争によって亡くなった選手」についてもよく言及される。
もちろん、戦火が野球界にもたらした影響は甚大で、とくに軍人となった選手たちがどのような思いで逝ったか、その心情は想像するに余りある。
ただ、一方でそうした「悲劇」としての側面に焦点を当てすぎるあまり、戦前の野球界全体として戦争とどう向き合ったのか、という視点ではあまり語られてこなかった。
終戦から75年。当時を知る野球関係者の多くがこの世を去り、彼らの証言を聞くことは難しくなった。その反面、野球の歴史をめぐる研究は発展をつづけ、終戦直後にはなかった新たな視点による分析や考察も出そろいつつある。
戦時体制を受け入れる側面も見られた「1930年代後半」
そもそも、野球界にいわゆる「軍靴の音」が迫ってきたのはいつ頃の話なのだろうか。その答えとして一般的なのは、
昭和12(1937)年に勃発した日中戦争が契機になったという見解だ。
事実、文部省はこの年の12月に運動を奨励し、国民の心身を修練して挙国一致の体制をつくることを目的とした「
国民精神総動員ニ際シ体育運動ノ実施ニ関スル件」という通牒を発しており、野球界もこの時点から戦時体制に組み入れられたといえる。
野球は後に「敵性スポーツ」として弾圧されるようになるが、この頃にはむしろ野球を含めた「スポーツ」の地位が高まっていった。「運動ができる人間」はすなわち「心身がよく鍛錬された青年」であり、さらに言えば「
いい兵士のタマゴ」だったのだ。
1937年に出された通牒以降、野球は徐々に
国家総動員体制に組み込まれていった。甲子園は開催こそできていたものの、「国威発揚」の側面が重視され、選手たちは愛国心を全面に出して、プレーへ臨むことが義務付けられた。
ただし、ここで野球関係者たちは、野球界が国威発揚の道具に使われることに反発したわけではないとも指摘される。むしろ、彼らは「外来の競技とはいえ、野球はこんなにもお国のためになるんです!」と訴え、「国威発揚」に利用されることを受け入れた。
もちろん、国家体制に迎合していくことで何とか野球を守ろうという気持ちもあっただろう。中には、学生や民間人によって運営されていた野球が戦争に利用されることに怒りを覚える関係者もいた。しかし、基本的にはお上の言いなりだったのがこの時期の野球関係者の姿とも考えられるのである。
こうして野球は戦時体制に組み込まれていったのだが、元々外来のスポーツであることから、国粋主義者たちによって野球批判の機運が形成されつつあった。