復刊後ベストセラーに。20年前の書『超限戦』から見えてくる中国の戦略
角川新書から復刊され、たちまちベストセラーとなっている。あちこちで超限戦についての感想を目にするようになった。すべてに目を通したわけではないが、私の見た範囲ではいくつかの重要な視点が抜けていた。今回はその視点を紹介し、そこから中国が進めている施策を解きほぐしてみたい。
『超限戦』の中の文章、「あらゆるものが手段となり、あらゆるところに情報が伝わり、あらゆるところが戦場になりうる。すべての兵器と技術が組み合わされ、戦争と非戦争、軍事と非軍事という全く別の世界の間に横たわっていたすべての境界が打ち破られるのだ」に端的に表現されているように、超限戦とは戦争のために、軍事、経済、文化などすべてを統合的に利用することである。軍事主体の戦争は、もはや過去のものとなった。
これは欧米でいうハイブリッド戦とほぼ同じ考え方である。ハイブリッド戦にはない特徴として、あらゆるレベル、あらゆる組み合わせで戦争が可能となる。これまでは戦争と言えば国対国だったものが、国対テロ組織、国対企業といった組み合わせで発生しうる。国家連合での戦争も増える。戦略兵器や戦術兵器といった区分もあいまいになり、戦術兵器で戦略的成果を得ることも可能となる。つまり戦争の主体=国家や企業や個人という概念を可塑性のあるものとしてとらえている。
実は『超限戦』にははっきりとは書かれていない大前提がある。それは欧米の民主主義的価値観と相容れないことだ。
・民主主義的価値観は超限戦とは相容れない
・民主主義にはもともと瑕疵があり、そこを突くことで容易に社会を不安定にできる
この2つは『超限戦』にはっきりと書かれていないものの、『超限戦』が非対称で強烈な威力を持つ源になっている。
すべてを兵器化し日常生活のすべてを戦場に変え国民を兵士として働かせるわけだから、超限戦の考え方は民主主義的価値観とは相容れない。戦争は人権侵害の塊であるが、それを日常に広げさらにその対象を企業や個人にまで拡大して「戦争の当事者」に仕立てるのは日常的な人権蹂躙ともいえる。
アメリカはパキスタンなど他国領土内でドローンを使ってテロリストを殺害し民間人の犠牲者も出しているが、これは超限戦でありテロ行為そのものだ。民主主義的価値観を尊重する国家がやっていいことではない。そのため、やるたびに国内外から批判を浴びている。
民主主義には数え切れないほどの瑕疵がある(それでも他よりはマシなので残っているのだが)。その瑕疵を利用することで社会を混乱に陥れ、機能不全にすることができる。民主主義そのものの脆弱性についてくわしく述べることは本稿の趣旨ではないので割愛するが、このことはさまざまなレポートでも指摘されているので共有されている問題と考えてよいだろう。具体的には下記のレポートで現在の欧米型民主主義には脆弱性があり、新しい時代に即したモデルが必要だと警告している。
●『INFORMATION MANIPULATION A Challenge for Our Democracies』(2018年8月、the Policy Planning Staff ”CAPS, Ministry for Europe and Foreign Affairs) and the Institute for Strategic Research (IRSEM, Ministry for the Armed Forces)
●『THE KREMLIN’S TROJAN HORSES 3.0』(2018年12月3日、大西洋協議会)
●『Exporting digital authoritarianism The Russian and Chinese models』(2019年8月、ブルッキングス研究所)
民主主義的価値観を尊重するなら超限戦を行うことはできない。しかし攻撃されるのを黙って見ているわけにもいかない。そこで民主主義的価値観を維持しながら対処を行っているが、やはり無理がある。中国が制約のない超限戦を行う一方で、欧米は民主主義的価値観という縛りの中で対応を模索している。
「超限戦」とは、およそ20年前の1999年に刊行された『超限戦』という書物で提示された新しい戦争の形のことである。
この本は2001年のアメリカ同時多発テロを予言した書物として注目を浴びたが、そのすごさは予言が当たった程度のものではなかった。2014年にはロシアの新軍事ドクトリンに超限戦に近い戦争の概念が提示され、欧米諸国はこれをハイブリッド戦と呼び、世界は否応なしに超限戦の時代へと突入した。
『超限戦』は、日本では長らく絶版となっていたが、本年1月10日やっと
「超限戦」とはなにか?
『超限戦』には書かれていない重要な前提
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