日本が作って米軍が爆破した中朝国境の戦争遺跡「河口断橋」。中国はちゃっかり観光活用
http://hbol.jp/17679)を後にして、川幅が広い鴨緑江を南西へ30分ほど車を走らせると、左手に単線の鉄道用鉄橋が見えてくる。かつての名称は不明だが、銃を持つ2人の兵士が通過する車へ鋭い視線で睨みながら警備しているので下車して撮影ができない。中国側へ続く線路を見るとすぐ先で切れているため廃線状態。それでも厳重な警備がされているところに、ここは紛うことなき「国境」であることを感じずにはいられない。
その鉄道用鉄橋を過ぎて少し進むと、丹東から北東へ約50kmしたところにある「河口断橋」に着く。
そう、ここは丹東にある有名な戦争遺跡である「鴨緑江断橋」に続く「もう1つの断橋」と呼ばれ、近年中国人を集めている観光地なのだ。
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鴨緑江に浮かぶ中洲(中国語には中洲という概念がなく海同様に島と呼ぶ)から朝鮮半島へ伸びる1942年(昭和17)12月に竣工した鉄筋コンクリート製の道路橋で、竣工時は、清城大橋と呼ばれた。
全長709.12m、幅6m、高さ25m、橋脚22基のこの旧清城大橋は、鴨緑江にかかる橋では、川幅の狭いところを選び建設されたが、鉄道が走らない道路橋としては、最大規模の橋だった。
断橋と呼ばれるのは、文字通り、途中で橋が切れているためで、丹東駅近くの断橋同様に朝鮮戦争時の1951年3月29日に米軍の空爆により破壊され200mほどの橋桁が崩落している。現在、崩落か所には橋脚3基が残されている。
断橋となって以降、現在も再接続されていないので橋としては機能していないが、中国人が集まる人気観光地となっている。
資料によると朝鮮戦争以降、放置されていた橋を1993年に観光地として整備し、1998年5月12日より正式オープンと観光地しては最近開放されている。
この河口断橋へ中国人が訪れる理由はいくつかあるが、大きな理由として考えられるのが、毛沢東の長男、毛岸英(1922年-1950年)がこの橋から朝鮮半島へロシア語通訳として出兵し、戦死していることだ。高度成長を迎えている現代中国人の毛沢東に対する再評価の動きと現共産党政権へとの比較、対比も影響していると耳にする。
つまり、河口断橋は、毛岸英や彼が戦死した北朝鮮という国をある種観光の「目玉」として打ち出したちょっとした戦争遺跡的な歴史観光地なのである。
河口断橋がある河口村は、鴨緑江の中洲にあり、桃やリンゴの産地で、養殖の川魚を丸ごと一匹煮る大鍋料理が名物である。中洲北朝鮮側には複数のホテルが立ち並ぶ。中洲内には、桃色の壁をした 毛岸英小学校もある。
入場料20元(約390円)を支払い橋へ向かうと「昭和十七年十二月竣功」と日本語で書かれた石柱が目に入る。橋の両側には朝鮮戦争や金日成についての説明もある。3分ほど歩くと鉄柵にぶつかりそのすぐ先がきれいに崩落している。
北朝鮮側には観光客らしき人影もなく、橋を渡った北側は平屋の家がまばらに建っているだけで、自動車や自転車で移動する人がチラホラ確認できる程度と寂しげだ。
橋のふもとに戻ると、これも観光の目玉の1つになっている遊覧船乗り場がある。大型船、チャーターできる小型ボート、遊覧時間などでコースや利用料が分かれている。残念ながら、著者が訪れた午後3時半はすでに大型遊覧船の営業は終了していた。
河口断橋から遊覧船で、対岸を見ながら上流へ向かうと女子刑務所の清城監獄、清水工業区(すでに稼働していない)、金日成故居などが見学でき、冒頭で見た警備の厳しかった鉄道鉄橋である清水鉄路橋の下をくぐり戻ってくる約1時間コースが人気となっている。
日本支配時代の遺産であり朝鮮戦争時代に米軍によって爆破された戦争遺跡をちゃっかりと国内観光用の名所として利用して稼ぐ中国と、それとは対象に中国人観光客用の客寄せにされるだけで観光地として1ドルも外貨を稼いでいない北朝鮮との対比は実に興味深い。
<取材・文・撮影/我妻伊都>
中華人民共和国東北部と朝鮮民主主義人民共和国との国境に流れる川、鴨緑江の上流にある水豊ダム(※参照:北朝鮮の重要な電力供給拠点、日本が作った「水豊ダム」に行ってきた ハッシュタグ