北朝鮮の重要な電力供給拠点、日本が作った「水豊ダム」に行ってきた
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この場所は、中朝国境の丹東から北東に約80km。丹東のタクシー運転手にも「どこだそれ?」と言われるほど知名度は低い。中国も北朝鮮も電力は国家機密扱いなので、観光地化はされておらず、中国側も厳しい監視下に置かれている。
1945年の敗戦後、水豊ダムの強力な発電能力は北朝鮮建国へ一役を買うこととなる。1960年代まで現在の国民一人あたりのGDPに換算すると北朝鮮と韓国の両国は、拮抗していたか、北朝鮮が上回っていたという統計もある。しかし、1965年(昭和40)の日韓基本条約による日本からの経済支援で「漢江の奇跡」を成し遂げた韓国は、70年代半ばになると北朝鮮を追い抜き差を広げていく。
戦後、権力闘争に明け暮れ、社会主義の同盟国からの援助頼みで、さしたる経済政策も行っていなかった北朝鮮が、経済競争力を維持できたのは、農業中心だった南と比べ、北には水豊ダムを始め複数の発電施設や重化学工場などが多く残された要因が大きい。
丹東からチャーターした車で約1時間半。まず最初に車を走らせ向かうのは、水豊ダムのダム湖を見渡せる水豊風景区だ。琵琶湖の半分ほどの水量を有する広大なダム湖では、遊覧船などを楽しむことができる。今年は春からの雨不足のため湖面がかなり低く、例年なら水に浸かっている変色した斜面がむき出しになっていた。
『金正日の料理人―間近で見た権力者の素顔』 (扶桑社・藤本健二 著)に登場する金正日総書記の昌城招待所が対面の北朝鮮側にあり、同書で著者と金正日が水上バイクで競争した湖がこのダム湖だ。
北朝鮮に大きな利益をもたらし続けている水豊ダムは、1948年春、金日成主席により北朝鮮の国章デザインとなり現在も北の国章として描かれている。また、2009年末のデノミネーション後に流通している新5朝鮮ウォン紙幣にも描かれている。
水豊風景区を後にしダム正面へ向かう。中国側の発電所警備員が怪訝そうな視線を送る中、特に注意されることもなく鴨緑江の河原へ降りることができた。初めて来たというドライバーも珍しいのか一緒に降りてスマートフォンで撮影している。
現在の発電量など詳細は公開されていないので不明だが、1944年の竣工時、最大出力70万キロワット(実際には60万キロワットに留まる)で当時の日本国内のダムは軽く凌駕(1940年(昭和15)の国内ダム総発電量は約280万キロワット)する世界屈指のダムだった。現在、日本一の発電量である多々良木ダム(兵庫県)の最大出力193万2000キロワットと比べてもその規模の大きさを感じることができる。
水豊ダムは、高さ106.4(166.4 とも)m、長さ899.5m、堤体積311万平方mのダムに 東京芝浦電気(現 東芝)製の発電機が7つ設置されていた。
1945年(昭和20)8月9日のソ連軍による侵攻で水豊ダムの7つの発電機のうち5つが略奪されてしまった。その後も朝鮮戦争で米軍の空爆や攻撃で一時発電能力を大きく減らすこともあったが、それでもなおダム本体は大きな損傷を受けることなく現在に至っている。
2009年に確認した時には、ダムの北朝鮮側に金日成主席の肖像画が飾られていたが、今回確認すると撤去されていた。しかし、北朝鮮側の山の斜面には、金正恩第一書記を称える言葉が登場するなど変化を垣間見ることができる。
北朝鮮は国章や紙幣のデザインにするなどちゃっかり活用しているところを見ると、もしかしたら同国内では「我が国が作り上げた民族の偉業」として喧伝されているのかもしれない。果たして、この豊かな水をたたえ、電力源として長年活用できたこのダムが、日本が作った「日帝支配の遺産」だとしっている人はどれだけいるのだろうか?
<取材・文・撮影/我妻伊都>
中華人民共和国東北部と朝鮮民主主義人民共和国との国境に流れる川、鴨緑江に沿った道を北東へ進んでいると突然、目の前の視界が大きく開けた。
戦前、日本が旧満州、朝鮮半島に残した最大の遺産の1つと言われる巨大ダムが目の前にその姿を現したのだ。写真よりもはるかに大きく感じるこのダムは、戦前、日本窒素肥料株式会社の子会社である朝鮮窒素肥料が全額負担し、西松組(満洲側)や間組(朝鮮側)などが主体となり作り上げた水豊ダムだ。竣工時、世界最大級を誇った重力式コンクリートダムで、現在も現役で稼働しており北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へも送電しているという。
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