フジモリ元ペルー大統領への恩赦が無効に。高齢で病身のフジモリ元大統領は再び収監されるのか?
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そもそもフジモリが25年の禁固刑を言い渡されたのは2つの事件からであった。ひとつはバリオス・アルトス(Barrios Altos)事件と、もうひとつはラ・カントゥタ(La Cantuta)事件である。
前者は1991年に特殊部隊がペルーの首都リマ市内の高い建物が存在している地区で、ある建物の2階で武装テロ組織センデロ・ルミノッソが会合を開いているという情報を掴み、現場に駆け付けた時に1階でバーベキューパーティーをしている住民をテロリストと混同。8歳の子供を含め25人を乱射して殺害した事件である。
後者は1992年に一般にラ・カントゥタと呼ばれていた大学に特殊部隊が乱入して学生と教授を拉致し、そのあと拷問の末殺害した。この大学は左翼系の大学として知られ、拉致された彼らが武装テロ組織と関係していると誤断して殺害に至ったという事件である。
当時、大統領だったフジモリはこの二つの殺害事件に間接的に関与していたと見做されたのであった。判決の結果は有罪、懲役25年の刑が下って2005年から服役中であった。
服役中は舌ガンの手術を6度受けたりもして健康上デリケートな身体にあった。警察管轄の収容施設と病院との間で入退院を繰り返していた。
その彼に恩赦の機会が訪れたのが、クチンスキー大統領(2016-2018)の登場であった。クチンスキーとフジモリは同年齢。彼が率いる少数政党では彼の政策を実行できず、フジモリの長女ケイコ・フジモリが率いる最大政党「人民勢力党(Fuerza Popular)の協力を得ずには何もできない状態になっていた。しかし、ケイコは父親の恩赦を交換にクチンスキーに協力するということは一度も口にしたことがないとされている。
ところが、クチンスキーが以前経済相そして首相のポストに就いていた時に、彼が所有している会社が公共事業などで汚職に関与していたことが発覚。そこで、ケイコはクチンスキーを罷免させることを決めてその為の準備を着々と進めていた。
定員130議席の一院制ペルー議会で、僅か18議席しか持たないクチンスキーの罷免は確実だとされていた。ところが、この場面でフジモリの次男で同じく議員のケンジ・フジモリが登場するのである。人民勢力党内でケンジの派閥にいる9人の議員と一緒に罷免採決の時に彼らは棄権したのである。結局、罷免賛成が87議席を満たすことなく、クチンスキーの首は辛うじてつながったのであった。ケンジのこの謀反で棄権した彼らは党から除籍処分を受けた。
この採決が行われる前にケンジとクチンスキーの間で、フジモリの恩赦と交換で10票が棄権に回るという裏取引があったとされている。それは今も明らかにされていない。クチンスキーはその3日後にフジモリを人道的な見地から恩赦することを発表したのである。
先に触れた事件の遺族らは、フジモリに恩赦を与えことに異議を唱えて米州機構の傘下にある人権裁判所に恩赦の付与について審査を要請したのである。その結果、ペルーで再度恩赦について迅速に裁定し直すことが要望されたのである。その結果が今回の最高裁の判決となったのである。
10月3日、南米ペルーでアルベルト・フジモリ元大統領(80)の恩赦が最高裁で取り消されるという出来事が起きた。フジモリは、昨年12月にクチンスキー大統領(当時)から、彼は高齢で健康もデリケートな状態で、しかも既に12年間刑に服している、として恩赦の決定が下されていた。
この決定に当時56%のペルー人が賛成し、40%が反対という反応が世論調査で明らかにされた。恩赦に賛成した人の58%が彼の病気のことを理由としていたという。(参照:「フジモリ元大統領恩赦、そして撤回の背景
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