ユーモアとウィットと風刺~『フジ三太郎』と4コマ漫画の時代【あのサラリーマン漫画をもう一度】

 忘れられないあの漫画。そこに描かれたサラリーマン像は、我々に何を残してくれたのか。「働き方改革」が問われる今だからこそ、過去のコンテンツに描かれたサラリーマン像をもう一度見つめなおして、何かを学び取りたい。現役サラリーマンにして、週刊SPA!でサラリーマン漫画時評を連載中のライター・真実一郎氏が、「サラリーマン漫画」作者に当時の連載秘話を聞く連載企画。
フジ三太郎

『フジ三太郎とサトウサンペイ』

 第2回目に取り上げる『フジ三太郎』は、朝日新聞が日本で最大部数を誇った時代に長期連載されていた、4コマサラリーマン漫画の代表格。国民的な知名度を誇った三太郎は、「典型的なサラリーマン」として国内外に認知され、その社会的影響力は絶大だった。  今回は作者であるサトウサンペイ先生に、祖父の代に作られたという「サトウクロック」の壁時計がかかるご自宅で話を伺った。御年87歳。戦争とサラリーマンが地続きだった時代からバブルの崩壊まで、世相を風刺し続けたサトウ先生のお話は、フジ三太郎と同様、ユーモアとウィットに富んでいた。

「漫画の履歴書」がきっかけでサラリーマンから漫画家に

――僕の実家はずっと朝日新聞をとっていました。小学生の頃って、新聞で読むところってテレビ欄と『フジ三太郎』だけだったんですよ。記事は読めないけれど、三太郎を読むことで、少しだけ大人になった気持ちでした。 サトウ:当時は小学生まで読んでいるとは考えてなかったけど、2009年にブログを始めたときに、コメントがいっぱいきて、そこで「子供の頃に読んでいた」という人がいっぱいいたのを知ったよ。 ――私の父はサラリーマンだったんですが、父が毎日通っている会社というところがどういう場所なのか、仕事ってどういうものなのか、『フジ三太郎』を読みながら想像していました。サラリーマンの仕事って、子供は覗けないので。 サトウ:僕の育った家庭環境にはサラリーマンが一人もいなかったんだよ。実家は祖父の明治時代から柱時計を作っていた。工場は空襲で焼けてしまったけれど、今でも続いていたら僕が三代目になって、銀座四丁目の角に佐藤クロックビルを建てていた(笑)。結局戦争は負けて工場を継ぐというチャンスもなかったし、家も空襲で焼かれたし、孤児みたいなもんだったよ。だからサラリーマンという存在がそもそも周りにいなかった。 ――サトウ先生ご自身は、百貨店の大丸に就職して、7年間ほどサラリーマン生活を経験していますよね。 サトウ:京都高等工芸(現在の京都工芸繊維大学)の老教授が、成績悪いからコネを見つけてくれて、心斎橋の大丸の宣伝課長(OB)に会って書類を渡せと言った。それで履歴書も付けて持っていったら、先輩は鼻の赤い呑兵衛の顔だった。その晩、雨と酒で泥んこになって、履歴書は洋服と一緒に洗濯屋へ行った。1か月たっても連絡が来ない。改めて宣伝部に行ったら、びっくりし、僕の手を引っ張って人事部へ。「わかりました、もう一回書類と履歴書を出して下さい」。  当時は毛筆で書かないといけないので、前のは同級の筆達者な友人に書かせたんだけど、今ここにいない。それで画用紙を買ってきて、生まれて初めて漫画を描いた。「1929年9月11日に生まれる」から始まって、赤ちゃんのちんちんを少し大きめに描いて(笑)。学徒動員のこととか4人に失恋した期日とか、自己紹介を一晩で描いた。カラーで8ページぐらいかな。

サトウサンペイ氏

――普通は履歴書を漫画で描かないですよね? サトウ:サラリーマンがどういうものなのか知らなかったから、そんなことが出来たんだよね。やっぱり中では大揉めだったみたい。こんなふざけた奴を採用するのかって。 ――百貨店の仕事ってどんな感じだったんですか? サトウ:宣伝部配属は決まっていたんだけど、入社してから3か月間、午前は講義。午後は売り場で研修。僕は婦人服売り場で、若い女性客のサイズを測ったりする係になって、もう嬉しくて、嬉しくて(笑)。こんないい仕事があるかって。  それで宣伝部長のところに行って、「宣伝部配属はいいです。婦人服売り場のままでいいです」って言った(笑)。それくらいサラリーマンのルールを知らなかった。6月になるとボーナスをくれた。「これなに?」と係長に言った。「賞与だよ」と言われても分からない。開けてみたら「カ、カネがはいってる!」とびっくりした。 ――サトウ先生が就職した1950年って、戦争が終わってからほとんど時間が経っていないのに、もうサラリーマン生活が普通に営まれていたというのは不思議な感じです。 サトウ:そうだろうね。僕らの頃のサラリーマンは、何かしら戦争に関係あったからね。大丸の宣伝部に入った時、広告課長の長谷川さんも戦争帰りだし、係長は京大ラグビー部のキャプテンで、これは学徒出陣で中尉。僕らは学徒動員生、陸軍造兵廠で高射砲の弾丸を作る旋盤工だった。言っとくけど、このときの可愛い女学生たちを「女子挺身隊」と言ったんだ。トラックに乗せて、兵隊の運転で移動することもある。勘違いするなよ。 ――大丸の宣伝部で働きながら、漫画家としてデビューされているんですよね。 サトウ:漫画の履歴書が大阪のジャーナリズムの間で噂になってね。新大阪新聞の編集局長の小谷正一さんという有名な人が、「いっぺん来いよ、うちの新聞に描いてみないか」と言ってくれて。それで初めて新聞に4コマを描くことになった。会社の規定で副業は出来ないので、ペンネームを作ったほうがいいと言われて。岡本一平という有名な漫画家が昔いたから、自分は一平までいかないだろうということでサンペイにした。 ――副業禁止の状態でサラリーマンと漫画家の二足のわらじを続けるのは大変だったのではないですか? サトウ:初めて夕刊に載った日、地下鉄の新聞売り場に行って、20部も買ってみんなに配った。気を遣っていたのにすぐ忘れるのね。で、みんな知っていたからね。さすがに漫画の用事で出てゆくときはつらい。「午後はサンケイ会館で漫画家の打ち合わせがあるので外出します」と係長のシバちゃんに言うと、大声で「かめへん。かめへん。お前みたいなやつ、おってもおらんでも一緒や」とか言うんだ(笑)。偉いよね。そういうサラリーマン見て育った。
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<サラリーマンもの>と書かれて腹が立った
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