文科省選定の「スーパーグローバル大学」はやっぱり無意味?
みんなヘンだと感じている。けれど「これも時代の流れだから」と国の好き勝手になっていることがある。例えば、この秋に文部科学省が発表した「スーパーグローバル大学」の選定もそうだ。
<若い世代の「内向き志向」を克服し、国際的な産業競争力の向上や国と国の絆の強化の基盤として、グローバルな舞台に積極的に挑戦し活躍できる人材の育成を図るため、大学教育のグローバル化のための体制整備を推進する>との目的で進められた事業。結果、東大などの旧帝大や早慶など計13校が「トップ型」、そこまでいかない計24校が「グローバル牽引型」の「スーパーグローバル大学」に選定された。前者は年に4.2億円、後者は年に1.7億円の財政支援を10年間受けられる。そして、なにより国家のお墨付き大学という、強力な受験生集めの宣伝材料を手にすることができた。
こうした「選別」を国がすれば、大学はそのお眼鏡にかなうよう、伝統も校風もそっちのけでどこも同じ「大学改革」に突っ走ってしまう。その危惧があるから、私は「スーパーグローバル大学」の創成支援事業に批判的だ。それに、そもそも目的の中にある<グローバルな舞台に積極的に挑戦し活躍できる人材>が漠然すぎる表現だ。世間一般で言うところの「グローバル人材」を指すのだろうが、それってつまりどういう人?
社会科で素朴な疑問を抱いたら、池上彰さんに聞くのが一番。ということでまず氏の見解を探した。すると、その名もずばり<池上彰と考える「グローバル人材とは何か」>という記事があった。氏はこう話していたそうだ。
<池上氏は各国を取材してきた経験をもとに、グローバル人材について「世界に通用する人間であると同時に、日本の良さも自覚した上で働くことのできる人材」と定義した。それには「日本について客観的な目を持つことに加え、自分とは違う物の見方や考え方をする人がいるという多様性を常に意識することが大切」と主張>
ん?分かりやすくて切れ味鋭い言語運用能力が魅力の池上氏のはずが、なんかぼんやりしたことを言っている。定義があまりに優等生的だ。発言の場が青年海外協力隊などで知られるJICA(国際協力機構)のイベントだったので、あの池上氏もTPOに合わせたのだろうか。
肩透かしを食らってしまい、他をあたると、プレジデントオンラインに<中途半端な「グローバル人材」はいらない>という鋭角な見出しの記事を発見した。早稲田大学ビジネススクールの入山章栄准教授は、「グローバル人材」という言葉はなかなかの曲者だと言う。<国と国の差はまだ大きく、世界は厳密な意味でグローバル化していません>。そう前置きした上で、個人が世界のどこでも発揮できる重要な能力の例を挙げる。そして、入山准教授がアメリカにいた頃、ある日本のメーカーからMBAで派遣されてきた人が車を購入するときに発揮した能力について語る。
<アメリカのディーラーは高い価格をふっかけてくることもよくあるので、交渉は油断なりません。そこで私は英語が苦手な彼がディーラーに行くのに付き添うことになりました。いざ現場に行くと、英語はそこそこしゃべれても「交渉下手」な私はまごつくだけ。ところが、驚いたことに、彼は片言の英語を使ってディーラーの社員と自ら交渉をはじめたばかりか、粘りに粘って結局は格安の値段で車を手に入れることに成功しました。現地人でさえ難しい交渉事を、アメリカに来て2日目の人が成し遂げたのです>
入山准教授は、このメーカー社員のように言語や文化の壁を乗り越えて通用する「対人交渉能力」を備えた人は「グローバル人材」であると言う。「できるビジネスマンに英語は要らない」というタイトルのビジネス書にしたくなりそうな好エピソードだが、そこまでの「対人交渉能力」を鍛えるよりも、ビジネス英語を身につけるほうが楽かもしれない。
これとはまた別の議論を展開していたのは、立命館大学政策科学部の上久保誠人准教授だ。ダイヤモンド・オンラインで<日本で全く育成できていない「真のグローバル人材とは」>と題する記事を書いていた。上久保准教授は<7年間の英国留学中に、おそらく「真のグローバル人材」と呼べるのではないかと思える人たちに会った>とのことだ。
<それは、英国の大学に留学していた、アジア、アフリカ、中東、旧東欧諸国、ギリシャなどから来ていた若者たちだった。皆、政治的・経済的に不安定な国の出身であり、自分の国に依存することができず、個人で自らの進む道を切り開くしかないという「覚悟」を決めているように見えた>
<驚いたのは、彼らが英国の大学院を修了した後のキャリアであった。彼らのほとんどは母国に帰国することはなく、欧米に残ってキャリアアップすることを志向したのだ>
<彼らは、人種・国籍・民族性にかかわらず、英国の大学で身に着けた高い専門性のみでグローバル社会を渡っていこうとしていた。それは、当時「日本人は日本企業に就職するもの」「国民は、国家に依存して生きていくもの」というある種の「常識」を持っていた筆者には、驚きであった>
上久保准教授は、「人種・国籍、民族に依存せず、自らの高い専門性のみでキャリアアップしていく覚悟を持つ個人」を「真のグローバル人材」とする。それはバブル時代に一部の日本人が「コスモポリタン」と呼んで憧れた脱日本人像だ。憧れ続けてきたのだが、たしかに「全く育成できていない」。なぜなら、日本は「政治的・経済的に不安定な国」ではなかったからだろう。今でもこの国がそこまでヤバいと感じている日本人は例外的だ。
やはり「グローバル人材」はそう簡単に育成できないものなのだな、と思わされたところで、ダメ押し的な記事をもう一つ。マッキンゼーの共同経営者を経て慶應SFCの教員に、といういかにもグローバルな経歴の上山信一教授が、日経ビジネスオンラインに書いた<「グローバル人材」なんか育成したって育たない!>だ。上山教授は、日本企業が独力でグローバル企業になること自体、難しいと言う。激烈なグローバル市場で生き抜く<最善の方法は、海外の大手企業と経営統合することだ>とし、人材についてもこう言い切る。
<日本からグローバル人材を輩出したいのなら、ホンワカした日本企業に、グローバル市場での戦い方を知っている外国人をどんどん受け入れることだ。それも上層部に入れる>
突然やってきた外国人経営者は、勝つための手段を選ばない。働く日本人は、<うっかり騙され、会社を乗っ取られそうになるかもしれない>とさえ言う。でも、そのぐらいの荒療治をしないと、グローバル化する世界には住めないらしい。
<会社も社員も、騙されて、騙されて、騙されて、強くなるしかない。子供たちも小学校の低学年から海外のサマーキャンプや留学に送り出そう。そこでも騙されて、騙されて、騙されて彼らは次第に強くなる>
<まるで楽しくない。しかし、それがグローバル化した世界で生きていくということなのである>
極論ばかり並べたように思われるかもしれないが、ネット上の主要な「グローバル人材」論を拾ってみた結果がこんなところなのである。大学教育を少しばかりいじってどうにかなるというような甘っちょろい認識の議論はお呼びじゃないのだ。あるいは、「グローバル人材」について胸を張って語れる論者は、その人自身が<まるで楽しくない>経験もいっぱい積んで、のしあがってきた強者ばかりということだ。
<文/オバタカズユキ>
おばた・かずゆき/フリーライター、コラムニスト。1964年東京都生まれ。大学卒業後、一瞬の出版社勤務を経て、1989年より文筆業に。著書に『大学図鑑!』(ダイヤモンド社、監修)、『何のために働くか』(幻冬舎文庫)、『大手を蹴った若者が集まる知る人ぞ知る会社』(朝日新聞出版)などがある。裏方として制作に携わった本には『大学キャリアセンターのぶっちゃけ話』(ソフトバンク新書)、『統合失調症がやってきた』(イースト・プレス)などがある。
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