当初はその名の通り薬局として、高価な薬品を扱っていたようですが、それのみでは経営的には苦しく、次第に大衆用の薬品や周辺製品の製造販売も手がけるようになってから、経営が軌道に乗っていったようです。
例えば1888年に発売した「福原衛生歯磨石鹸」は日本初の練り歯磨きとして、従来の歯磨きの10倍もの値段であったにもかかわらず、上々の売れ行きを記録しています。
また、1897年には高等化粧水「オイデルミン」を発売し、化粧品事業に進出していますが、こちらもガラス容器の美しさから『資生堂の赤い水』というやや不思議な愛称で評判を呼びました。なお、この「オイデルミン」は現在も愛される
驚異のロングセラー化粧品となっています。
当時の資生堂が、高価だが高品質の商品を扱っている、という評判を得ていったことは、例えば夏目漱石が『門』で「自分の下宿にゐた法科学生が、一寸散歩に出る序でに資生堂へ寄って、三つ入りの石鹸や歯磨を買ふのでさえ、五円近くの金を払ふ華奢を思ひ浮かべた」と書いている点からも伺えます。
このように、薬による健康改善にとどまらず、外見や内面も含めて、顧客に新しい癒しを届ける、といった方針に舵を切った有信が、1900年のパリ万博を見学した帰路、アメリカのドラッグストアで目にしたのが、併設されていたソーダファウンテンでした。
なお、ソーダファウンテン自体はソーダを提供する機械の名前です。現在だとファミレスのドリンクバーの機械ですね。ちなみにアメリカでは果汁100%の飲料をジュース、それ以外がソーダだったりするので、ソーダ=炭酸飲料、というわけではありません。
ともあれ、薬以外で人の気分を癒すソーダファウンテンを知った有信は、機械はもとよりグラスやスプーン、シロップに至るまで、全てをアメリカから取り寄せ「資生堂ソーダファウンテン」をオープンしました。
こうして売り出されたソーダ水は、アイスクリームソーダ1杯25銭(当時の理髪料金が5銭、新聞購読料が28銭なので、感覚的に2000円くらいでしょうか)とかなりの高額でしたが、見事に銀座の名物となりました。
この成功の裏には商品以外の理由もあり、販促としてソーダ水1杯につき、上記の「オイデルミン」が1本ついてきたのです。「オイデルミン」自体が1本25銭だったので、当時の銀座のモガや新橋の芸者さんが店に押し寄せる、強力なキャンペーン効果をもたらしたようです。
しかし、その後の1923年の関東大震災時に資生堂も被災し、建物が全焼します。ですが、それを機に前田健二郎の設計により、2階にオーケストラボックスのある大きな吹き抜けの客室に、入口にはプレゼント用の花屋もある、
華やかな店舗へと改築されます。そして、そこで開業されたのが本格的な洋食も提供する「資生堂アイスクリームパーラー」でした。
3代目総調理長高石鍈之助によって考案された庶民的なコロッケとは一線を画す「
ミートクロケット」を始め、ソースポット入りの「
カレーライス」、10時間以上かけて作る「
コンソメスープ」、池波正太郎の愛した「
チキンライス」、実は元々裏メニューだった「
オムライス」等々、長年愛される洋食の定番がここから生まれました。