……いかにも新興宗教にありがちなエピソードではある。新興宗教のみならず宗教と「病気治し」は不可分と言っても良い。この安東巌のエピソードを「そうしたありきたりな、宗教的寓話の一つ」と切って捨てることもできよう。
が、当事者にとっては違う。当事者にとっては、この「癒し」はアクチュアルなものなのだ。他人が何と言おうと、当事者の認識のなかではその癒しがもたらされたことは事実なのだ。とりわけ、「病気治し」の功徳で信徒を多数獲得してきた「生長の家」教団とその信徒にとって、この安東巌の癒しのエピソードは、極めて重要な意味を持つ。
この神秘体験は、安東巌に不思議な力を与えた。この「不思議な力」については後ほど、詳しく解説する。今は、「安東巌の信仰体験が、ほかならぬ谷口雅春によって語られた」という事実に注目したい。
椛島有三ら「生長の家学生運動」出身者たちは、いずれも熱心な「生長の家」信徒だ。百地章に至っては「生長の家」原理主義運動ともいうべき「谷口雅春先生を学ぶ会」の設立に参与するほど熱心だ(
連載22回参照)。しかし、彼らのうち、谷口雅春本人から名前を言及された人物は居ない。調査の過程で、現存する谷口雅春の肉声データはほぼ全て聴いた。だが、多数の聴衆の前で谷口雅春が肉声でそのフルネームを呼んだ「一群の人々」に属する人物は、安東巌ただ一人だ 。(※2)
もはや、「神の子」と言っていいだろう。
そんな安東巌が、「一群の人々」の中でリーダー格と目されるようになるのは、至極当然のことだ。
ともあれ。
青春の7年間を虚しく病床で過ごした安東巌は、今、決然と起き上がり、社会にその一歩を踏み出した。母を恨み、大学進学する同級生たちを羨望するだけだった弱々しい安東巌はもういない。信仰によって病を癒し、生まれ変わったのだ。これ以上、青春を空費するわけにいかない。青春を取り戻さなければならぬ。
1966年(昭和41年)、ビートルズが来日したあの年に、安東巌は長崎大学に進学する。安保改定の1970年を4年後に控え、世情はまた騒乱の匂いを漂わせ始めていた。
この長崎大学で、安東巌は、6歳年下の椛島有三と出会う。
その後、安東と椛島が開始した「学園正常化運動」は大きく育ち、衛藤晟一、百地章、高橋史朗といった面々を巻き込みつつ、やがて、「民族派の全学連」と呼ばれた「全国学協」にまで発展していく。この過程はこの連載で何度も述べた通りだ。
その過程において、「神の子」・安東巌は常に運動の最前線にい続けた。彼らの運動が、長崎大学から九州全土に広がり、九州から全国各地に波及し、対立する人物を追い落とし、放逐し、あるいは、左翼学生たちとゲバルトを重ねる……といった一連の過程で、彼は随所に「不思議な力」を発揮し続け、運動を完全に掌握するに至る。
次回は、この安東巌の「不思議な力」に迫ろう。
この「不思議な力」にこそ、「日本会議」や「一群の人々」の運動を理解する鍵が潜んでいるはずだ。
※1 「生長の家」教団における宣教師のような職分を「講師」と呼ぶ。講師には「地方講師」と「本部講師」の2種があり、本部講師の資格所得は難関だと言われた。ちなみに。安東巌のこのエピソードよりもはるか後年「幸福の科学」を立教することとなる大川隆法の父親は、「生長の家」の地方講師だった。
※2谷口雅春の著作や雑誌投稿に名前が登場した人物は他にも幾人かは存在する。例えば
特別編で紹介した高橋史朗などはその事例の筆頭だろう。また非公式の場で側近などに「あの学生はよくやっている」と谷口雅春が感想を述べたなどという類のエピソードは相当数存在する。しかし、谷口雅春の主著である「生命の実相」を解説する文脈で、しかも「生命の実相」の功徳の実例として、信者獲得・信者テコ入れを目的とした場で谷口雅春本人の肉声で名前が読み上げられた実例は、安東巌の事例以外、確認できない。
<取材・文/菅野完(Twitter ID:
@noiehoie)>