日本会議/日本青年協議会の若手構成員の実態――シリーズ【草の根保守の蠢動 第26回】
2015.12.26
前回に引き続きとある学生が純粋な愛国心から知らず知らずのうちに、日本会議/日本青年協議会に近づいてしまい、彼らの学生団体である「全日本学生文化会議」に吸い込まれていく過程を紹介している。前項に引き続き、本稿では、日本会議/日本青年協議会を構成する「若者会員」は、どういった人々なのか、引き続き、早瀬善彦氏の証言をもとに、紹介していこう。
「どうやらここは宗教系の集まりらしい」とは気付いたものの、なかなかサークルから抜け出せないまま、その年の秋を迎える。秋には鹿児島で合宿が開かれた。
「この合宿はむちゃくちゃ参加者が多かったんですよ。長崎大学の人とか」
連載5回、12回で解説したように、日本会議/日本青年協議会の濫觴は1968年の長崎大学学園正常化運動にさかのぼる。現在、日本会議の事務総長/日本青年協議会の会長を務める椛島有三は、この運動で、一躍、民族派学生のヒーローとなった。長崎大学はいわば彼らの故郷。その長崎大学からの参加者が一番多かったというのだ。
「今から思うと、メンバーはみんな学生運動の2世・3世なんですよ。親に言われて渋々来てるのもいた。結局、彼らの人材の供給源は、2世・3世しかいない。僕みたいなパターンは異端なんでしょう。」
確かにこれはそうだろう。椛島有三の実娘・椛島明実も「全日本学生文化会議」に所属していたことが確認されている(※1) 。
「宮崎正治さん(注:日本青年協議会の元幹部。一度運動からパージされたがのちに許され復帰し、現在は日本教育再生機構の常務理事)の息子さんもどっかの合宿に来てましたよ。彼はカラーが違った。本当に参加するのが嫌そうでした。彼、京大工学部でね。理系だから情念先行の論理の欠如したあの雰囲気を本当に嫌がっている感じでした」
この非論理的で情緒先行型の思考は、内部の勉強会だけではなく、街宣などの外部向けの活動でも発揮される。
「合宿に来てた長崎大の学生で一人、ソリの合わない奴がいたんですよ。そいつが『自分は「A級戦犯は無罪だ」と街頭演説したんだ。ただ、街の人にA級戦犯は何で無罪なの?と聞かれた時、説明できなかった。全然勉強が足りなかった』っていう話を自慢げにしたんです。もう信じられなくて。街宣するならそういうこと勉強してからやれよと指摘したんです。そしたら、『知識より大事なことがある!』とか言い出したんです」
これでは早瀬氏が呆れるのも無理はなかろう。
呆れるような体験ばかりが続く中、早瀬氏は2003年1月、また合宿に誘われる。今度の開催地は東京だ。
この時はじめて、目黒区青葉台にある日本会議/日本青年協議会の本部を案内されたという。
「ビルのフロアは全く一緒で、『ここが日本会議で日本青年協議会だよ』って説明を受けたんです。『日本青年協議会が結局実質、全部事務やってるんですね?』って聞いたら、『秘密だけどね』って言ってました。同じフロアで仕切りも何もないんです。」
東京の合宿には、講師として日本政策研究センター代表の伊藤哲夫(連載13回参照)も参加していたという。
「伊藤さんはちょっと知的ですよね。政策寄りの話をする。僕らに、パトリックブキャナンの本を読めとか勧めたりね」
これに加え、早瀬氏はようやく、この東京合宿で探し求めていたような同志と出会うことができた。
「この時はじめて、早稲田のメンバーと会いました。『早稲田国史研』ってサークルの人たち。もう全然カラーが違ってて。彼らは、ちゃんと、シュミットとかバークとか読んでるんですよ。だから話が合う」
早稲田から合宿に参加したのは、早瀬氏が希求していた読書と批判的思考で保守運動に参画しようとするメンバーだった。しかしこの喜びもすぐに崩れ去る。
「早稲田のメンバーと色々喋ってたら『ここ、生長の家でしょ?』(※2)とか言ってきて、『え?そうなの?』となったわけです。『宗教団体なんですか?』って聞いたら『そうだよ』と。え。。。と愕然となったんです。この合宿は明治神宮の近くだったから、毎朝5時ぐらいに起こされて、なんか、儀式をやるんですよ。で、早稲田の連中が、『そんなんでなくていい』と。みんなでボイコットしたんです。朝、ドア閉めて。めっちゃ起こしにきましたけどね(笑)で、『こいつら気持ち悪いよな』ってなって意気投合して、京都帰ったんですけど、その後も、早稲田のメンバーとはずっと連絡取り続けました」
東京に残った早稲田のメンバーは、その後、サークル部室に残されていた古い資料を漁ったという。
「そしたら反憲学連とか高橋史朗の手記とか『ニューソート研究会』の資料とか、長年の資料がいっぱい出てきて。で、その資料を見た結果、『やっぱカルトじゃん』と早稲田のメンバーは総括して、結果、早稲田国史研は、『ダミーサークルでしかなく学内の規定に準拠していない』という理由で、潰しちゃいました」
東京での「クーデター」は成功したものの、関西で一人残された早瀬氏は、まだ全日本学生文化会議との関係を断ち切れずにいた。
「学者を目指してたんで、僕には、『先輩には高橋史朗さん 新田均さん 勝岡寛次さんがいる。ああいう学者を目指せ』って言ってきました。」
高橋史朗については、連載で触れた。新田は皇學館大学教授 勝岡は明星大学非常勤講師をそれぞれ勤めている。高橋は当然の事ながら、確かに、新田の名も勝岡の名も、日本会議界隈でよく見かける。早瀬氏の証言で彼らが日本青年協議会に属する人物であることが裏付けられた。
そろそろ早瀬氏は大学2年生になろうとしていた。このころになると、さすがに彼らとの距離を取り始め出す。人がいなくなったため、同志社大にあったサークル は、自然消滅したという(※3)。
「やっぱり結局、OBしかないんですよね。彼らの供給源って。昔学生運動してた連中の2世ですよね。で、九州はなんで残っているかというと2世が多いからって理由です。東京にも相当数いるんでしょう。でも関西だと関関同立とか京大には、いないんですよね」
これは合理的な説明だ。九州は彼らの運動が生まれた土地だからOBも多いのは頷ける。そして、大学の数の多い東京にもOBは多いのだろう。しかし一方で、これまで調べたところでも関西の大学で彼らの運動が盛んだったという話は聞かない。
「もうなんかね、話の節々が学生運動を忘れられない奴らが、それを続けてる……ってノリなんですよ。昔の『生長の家』の思想を核にしながら『あの先輩は、左翼学生が多い時代に何々した』とかいう武勇伝ばっかりなんですよ。『中核派と戦って』とか『あの大学の自治会を奪った』とか。話が非常にみみっちい。日本をどうするとか時代をどう見るとかいう話じゃない。学生運動の話ばかり。まあ、元号法制化運動の話は何度か出てきましたけどね」
次項では、現在も保守でありながら日本会議/日本青年協議会への違和感を隠さない早瀬氏が見た、「日本会議/日本青年協議会」への総括を聞いてみたい。
(※1) 産経新聞社が主催する「土光杯全日本青年弁論大会」の2015年優勝者は椛島明実だった。報道資料を見ると、彼女の肩書きは「全日本学生文化会議職員」。親子二代でプロ活動家ということになろう(「第31回土光杯弁論大会 土光杯に椛島さん、産経新聞社杯に田中さんが受賞」)
(※2)早稲田のメンバーは、「生長の家」だと思ったらしいが、この連載でも再三再四指摘してきた通り、これは「宗教法人・生長の家」ではない。日本青年協議会は、現在の「生長の家」教団とは違う道を進んでいる原理主義集団をバックボーンとしている。
(※3)全日本学生文化会議は、この名の通りのサークルを作ることはあまりない。変名を使って各地の大学でサークルを作っているようだ。早瀬氏の所属したサークルも学内であh「JHAC」と名乗っていたという
<取材・文/菅野完(Twitter ID:@noiehoie)>
「連中の供給源は二世・三世ばかり」
「高橋史朗先輩を目指せ」
人材の供給源は学生運動の2世たち
『日本会議の研究』 「右傾化」の淵源はどこなのか?「日本会議」とは何なのか? |
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