140年前のAirbnb。老舗「金谷ホテル観光」は「民泊」からスタートしていた!
金谷ホテル観光は1873年(明治6年)創業、現存する日本最古のリゾートクラシックホテルを始めたことで知られており、登録有形文化財や近代化産業遺産にも指定されている老舗ホテルです。その起源は1871年、日光見物に来たものの、開国後間もない時期で外国人の滞在に対する警戒心もあり、宿が取れずに途方に暮れていたある外国人に、代々日光東照宮の雅楽師だった金谷善一郎が自宅を提供して宿泊させたことに遡ります。
ヘボンでした。善一郎の好意に感動した博士は、その後「国際的観光地として日光が発展するためには、外国人観光客を対象とした宿泊施設が必要である」というビジネスのヒントを善一郎に送ります。それをきっかけとして、善一郎は自宅を改造して「金谷ホテル」の前身となる「金谷カテッジイン」を21歳という若さで開業し、日光を訪れる外国人が安心して泊まれる宿として、評判を高めていったというのが創業のきっかけです。
ちなみに、こちらのエピソードは結構有名な話ではありますが、ちょっとニュアンスの違うものもあって、伝統ある雅楽師の金谷家が外国人を無断で自宅に泊めたことで東照宮から善一郎が破門にされてしまい、生活に困った善一郎のことを知ったヘボン博士が「これから外国人の観光客が日光に沢山来るから、その人達のための宿屋をやってはどうか」とアドバイスを送った、というものもあります。
個人的には、こちらの動機の方が楽師→旅館業の転職幅としては自然な気もしますが(笑)。一方できっかけはどうあれ、滞在した女性旅行家、イザベラ・バードも著書の中で「こんなにも美しい部屋でなければよいのにと思うことしきりである。」と述べており、善一郎と彼の家族が屋敷を隅々まで磨き上げ清潔にしている様子など、真剣に「金谷カテッジイン」と向き合っていたことが伺えますね。
そんな努力の甲斐もあって、外国人客の中で「金谷カテッジイン」は「Samurai House」(金谷家の家屋が江戸時代には武家屋敷であったため)で知られるようになり、また、日光の冬の寒さを活かしたスケートリンクや新鮮でおいしい乳製品を作るための畜産部を作るなどの工夫を続けた結果、後に本格的に展開されるホテル展開含め、当時の著名な外国人が多数滞在しています。
ざっと挙げるだけで、上述のヘボン博士やイザベラ・バードの他にも「大森貝塚」のエドワード・モース、南北戦争のグラント将軍(大統領)、「近代建築の三大巨匠」フランク・ロイド・ライト、「相対性理論」アインシュタイン、「大西洋横断」リンドバーグ、「喜劇王」チャーリー・チャップリン、「奇跡の人」ヘレン・ケラー、「鉄人」ルー・ゲーリック等々の外国人が訪日の際に訪れています。余談ですが、イザベラ・バードは今年の「このマンガがすごい」にもランクインした「ふしぎの国のバード」でも注目を浴びてます。
その後、1893年になると建築が途中で止まっていたホテルを買収「金谷ホテル」を開業するなど、引き続き発展を遂げていた同社ですが、その頃になるとホテル開業による競争も激しくなっていました。そこに登場したのが善一郎の長男である金谷眞一でした。眞一は東京で英語を学び、18歳で帰郷した後、同社の経営を継いでいますが、その行動力には目を見張るものがあります。まず、ホテルの競争力を高めるための電力の確保が必須と考えた眞一はドイツの業者と交渉し発電機を購入、自ら工事を監督し1908年には自家用水力発電所を建設しています。
さらに、1914年にまだまだ普及していなかったフォードの中古車を送迎や観光用に購入、それが好評を得るや単身渡米し、デトロイトの自動車工場であのヘンリー・フォードに面会「自動車営業を拡大したいが資金が不足している」と訴え、フォードから「便宜を図る」という返答を取り付けると14台の自動車を購入、自動車会社を設立し日光の交通網を充実させます。
そして、「自動車王」の次は「鉄道王」が相手です。折しも、「鉄道王」根津嘉一郎率いる東武鉄道が今市から日光に延伸した際に地元の反感もある中、市内鉄道やバス会社の譲渡に協力してその信頼を得ていた眞一でしたが、東武鉄道が日光から鬼怒川温泉までの更なる延伸と鬼怒川温泉駅前にかつてない規模の大規模ホテル建設を決定すると、鬼怒川が一大温泉観光地になることを確信、顧客を離れを懸念して大反対の地元旅館の説得に見事成功し、「鬼怒川温泉ホテル」の完成に大いに貢献しました。そして、根津はその貢献に対して「鬼怒川温泉ホテル」の営業権を眞一に譲渡しています。
そんな経緯で1931年にオープンした「鬼怒川温泉ホテル」の当時の宿泊料金は、鬼怒川温泉内では最も高く設定され、旧皇族や華族たちに利用されました。鬼怒川沿いのホテルからの眺めは絶景、内装は豪華かつ瀟洒、芳醇な和洋酒を取り揃えたバー&グリル、豊富な種類の浴場、ダンスホール、ビリヤード場など多彩な娯楽施設等々、それは和洋の粋を集めた近代日本旅館の原形ともいえるものでした。
そんな発展を遂げた同社でしたが、日中戦争から太平洋戦争の時代に入ると、同社は外国人相手のホテルという事で軍部から監視の目が光るようになり、苦難の時代を迎えています。戦時中は女子艇身隊の宿舎、戦争末期には学習院初等科の学童疎開先、終戦後も進駐軍の保養所として接収され、1952年に接収を解除されるまで、金谷ホテルにとっては独自の経営ができない辛い時代が続きました。
・第64期決算公告 9月1日官報56頁より
【当期純利益】1億1180万円(前年比△36%)
【利益剰余金】4億2291万円
過去の決算情報など、その他企業情報まとめ
また、独自経営に戻ってからも、時に厳しい時代の流れで経営危機に見舞われつつも、小山薫堂氏を顧問に迎えたり「100年ライスカレー」を販売したりと色々模索しながら、頑張ってしぶとく生き残っているという印象ですね。直近の決算も36%の減益ながら純利益で1億円は確保しています。
ところで最近、円安によるインバウンド(訪日)観光客の増加や2020年の東京オリンピックに対する国内のホテル旅館のキャパシティーの逼迫が指摘され、それを解決する方法としてシェアリングエコノミー「Airbnb」に代表される「民泊」を活用しようというトレンドが盛り上がっています。一方で、従来の旅館やホテルの営業を管理する「旅館業法」は基本的に「民泊」を安全性等の面から認めていませんので、現状「Airbnb」などもグレーゾーンとなっており、そこに対する法整備が急務とされ、大田区や大阪府、福岡市等では一部適用の動きも出始めています。
しかし、今回日本最古のインバウンド向けホテルと言える金谷ホテル観光の創業からの歴史を振り返ってみると、最初に善一郎さんが困ってる外国人観光客のヘボン博士を地元に無許可で泊めて怒られた?のってまさに今叫ばれてる「民泊」だったりするんですよね(笑)。そして、その後出来るだけ、来てもらうお客さんに快適かつ安全に過ごしてもらいたいという「金谷ホテル」を始めとする各ホテルの取り組みの結果が多分「旅館業法」になっているわけです。そう考えると、まさに歴史は繰り返しているわけで、善一郎さんや眞一さん、ヘボンやバードが生きていたら、ぜひ意見を聞いてみたいですね。
※今回の記事制作にあたり、金谷ホテルの歴史については「金谷ホテルヒストリー」を参考にさせて頂きました。
・決算数字の留意事項
基本的に、当期純利益はその期の最終的な損益を、利益剰余金はその期までの累積黒字額or赤字額を示しています。ただし、当期純利益だけでは広告や設備等への投資状況や突発的な損益発生等の個別状況までは把握できないことがあります。また、利益剰余金に関しても、資本金に組み入れることも可能なので、それが少ないorマイナス=良くない状況、とはならないケースもありますので、企業の経営状況の判断基準の一つとしてご利用下さい。
【平野健児(ひらのけんじ)】
1980年京都生まれ、神戸大学文学部日本史科卒。新卒でWeb広告営業を経験後、Webを中心とした新規事業の立ち上げ請負業務で独立。WebサイトM&Aの『SiteStock』や無料家計簿アプリ『ReceReco』他、多数の新規事業の立ち上げ、運営に携わる。現在は株式会社Plainworksを創業、全国の企業情報(全上場企業3600社、非上場企業25000社以上の業績情報含む)を無料&会員登録不要で提供する、ビジネスマンや就活生向けのカジュアルな企業情報ダッシュボードアプリ『NOKIZAL(ノキザル)』を立ち上げ、運営中。
そして、この外国人こそが今もお馴染みの「ヘボン式ローマ字」の発案者として有名な
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