柔和な表情の中に、時折鋭さが覗く村上正邦氏
日本会議や日本青年協議会、そして「生長の家」政治運動を追いかける際、どうしても避けて通れない男がいる。
亀井静香をして「2,000メートルの地下から這い上がった男」と感嘆せしめ、野中広務をして「あんた、天下を獲るつもりじゃないだろうね」と驚懼せしめた男。
参院議員でありながら、渡辺美智雄なきあとの旧中曽根派を継承し、派閥のドンとして歴代の総理総裁選びに絶大な影響力を行使し続けた男。
「生長の家」をはじめとする宗教票をバックにし、参院に君臨しつづけ「参院のドン」「参院の天皇」と呼ばれた男。
そう、村上正邦だ。
村上正邦こそが、日本会議を作り、その前身である「日本を守る会」や「日本を守る国民会議」のリーダーとして、彼らの国民運動の先頭に立ち、この連載のメインテーマの一つである「日本青年協議会」を「大人の世界」に紹介した人物だ。
彼を避けて日本会議の歴史は語れない。日本会議の歴史だけではない。村上正邦を避けて、今の安倍政権の背後にうごめく「一群の人々」を語ることはできないだろう。
八月某日、その村上正邦氏を、永田町の事務所に訪ねた。
広いオフィスの一角に、清潔な応接セットが置かれている。氏はそのソファーに座り、筆者を出迎えてくれた。
「じゃ、まず、ご挨拶ね」
名刺交換の間にもこちらの表情を確実に観察する眼光は、あくまでも鋭い。だが、いささかも嫌な気持ちはしない。むしろ愛嬌を感じるほどだ。
事務所の正面には神棚。その下には、谷口雅春氏真筆の「天皇国日本」の大きな額。神棚の左右にはこぶりの額が飾られている。きっと村上正邦氏の参院選初出馬に際し、谷口雅春氏がしたためたという手紙だろう。
「よくわかったな。あれは雅春先生から頂戴した手紙だ。僕はこれからも、谷口雅春先生が目指された憲法改正と優生保護法改正を、すこしでも成し遂げようと、活動していくつもりだ」
そう語るときの目は、まるで少年のようだ。声の張りも今年で83歳とは思えない矍鑠たるもの。「老いてますます盛ん」という言葉は、この人のためにこそ、ある。
村上正邦氏へのインタビューは、2時間近くにわたった。話題は安倍政権の評価、日本会議誕生の舞台裏、「生長の家」の政治運動、日本青年協議会についてなどなど、多岐に渡った。今回からその内容を数回に分けてお伝えしていく。しかしまずはなんといっても、先日公表されたばかりの「安倍談話」について、いま、村上正邦氏が何を考え、あの談話をどう評価するかを、まずはお伝えせねばなるまい。
この連載でも数回にわたって触れたとおり(
連載第7回および
連載14回)、1995年の「戦後50年決議」策定の舞台裏で、決議文作成の交渉の中心にいた人物こそ、村上正邦氏だ。
「安倍談話は心に響かん」という村上氏
連立与党執行部側の「ペテン」により、結果として、「50年決議」の文案は、明確な謝罪が盛り込まれることとなった。これに憤慨した謝罪決議反対運動の運動家たちをなだめるため、村上正邦氏は「よし!参院では可決させない」と約束する。結果、「50年決議」は参院では決議案提出さえ見送られるという事態に陥る。
「村山富市さんによく言うんだよ。俺が50年決議を通さなかったから、あんたは村山談話を出した。その村山談話がこんなに話題になるんだから、あんたは俺に感謝しなきゃいけないと。そしたら村山さんも『そうだよなぁ』というんだ」
村上氏は冗談めかして語ってくれたが、確かにこれは氏の言う通りだろう。もし50年決議が通っていれば、村山談話そのものが生まれなかったかもしれない。
まっすぐに「先日だされた安倍談話は、あのとき、加藤紘一や野中広務が決議文に混ぜ込んだ、「こうした」の四文字を取り除いただけのものにしか見えない」という、筆者の見解をぶつけてみた。
「いや。その通りだと思う。その通りだよ。それでしかないの。だから本来は、俺はあの談話に賛成にまわらんといかんのよ。」
「50年決議」の文案作成当事者である村上氏にとって、安倍談話は「あのとき自民党執行部が決議文に紛れこました『こうした』の四文字に対する意趣返し」に映るようだ。
「しかし、心に響かんのよ。懇話会から上がってきた話、これまでの経緯、そういういろんな話のいいとこ取りだけしてだね、言葉をつなぎ合わせただけにすぎない。あっちにもいい顔をしよう、こっちにもいい顔をしようと。だからあれだけ長い文章になるんだよ。安倍さんの匂いが一切しないんだ」
この見解も、村上氏のいうとおりだろう。確かに「安倍談話」は異様に長い。氏のいうように「いいとこ取り」したと解釈するのが妥当ではあるまいか。
20年前のことながら、村上氏の記憶は鮮明だ。1995年6月6日のあの日「50年決議」の文案を巡って繰り広げられた攻防を実に克明に記憶している。
「国会の真ん中に通路があるでしょ。左側が参議員。右側が衆議院。その一番はしっこに、衆院の自民党役員室がある。あの日、19時ごろから会議が始まったんだ。主にやりあったのは、加藤紘一、野中広務。それから古賀さんもいた。あと、森喜朗ね。ずらっと衆院の自民党の連中がいる。で、僕は最初から『そんな謝罪はダメだ』『そんな文案じゃだめだ』と反対意見を言いつづけた。」
この証言は、森喜朗氏が出席していたという事実以外は、これまでの報道や文献で確認が取れる内容と全く一緒だ。問題はこの先である。村上氏は、衆院自民党役員室で練られた文案を参院の自民党幹事長室に持ち帰っていたはずだ。
そこに誰がいたのか。
「参院側では、応接間に、椛島。そして大原。俺が特に覚えているのは、大原だ。」
「椛島」についてはもう解説するまでもないだろう。この連載でも何度も登場してきた、日本会議事務総長・日本青年協議会会長の椛島有三氏のことだ。「大原」とは、國學院大學名誉教授の大原康男氏のこと。大原氏は日本青年協議会のメンバーでも「生長の家政治運動」のメンバーでもない。しかしその堅牢な論理と旺盛な執筆意欲から、日本青年協議会や日本会議の周辺でイデオローグのような立場にいる。
「あと、若い連中もたくさんいた。日本青年協議会の若い連中が。」
これまでの報道や文献で、「謝罪決議に反対する右派」や「民族派」などと呼ばれていた「謝罪決議に反対するために参院幹事長室に詰め掛けていた人々」とは、とりもなおさず、日本青年協議会のことなのだ。
村上氏は、日本青年協議会の突き上げをうけ、再度、衆院側の自民党役員と討議する。そして最終文案として提示された文案で、衆院側の役員から「ペテン」にかけられ、明確な謝罪が決議案に盛り込まれる。
「みんな真剣に怒っていた。特に、大原さんは怒っていたね。椛島まで真剣に怒っていた。あの時は、みんな真剣だった。もうどうも手がつけられないんで、『参院では可決させない』と約束して、その日は帰ってもらったんだ」
20年前のあの日、「参院のドン」とよばれた村上正邦氏をそこまで追い詰めた日本青年協議会。この周辺の人々が現在の安倍政権の中枢に入り込んでいる。
村上正邦氏へのロングインタビューは、この50年決議のみならず、安倍政権の歪さや、「生長の家政治運動」の歴史など多岐に渡った。
今後その内容を順次公開していく予定だ。 ご期待願いたい。
<取材・文/菅野完(Twitter ID:
@noiehoie 撮影/菊竹規>