日本に蔓延する「宗教に対する浅薄なナイーブさ」――シリーズ【草の根保守の蠢動】特別企画「宗教と政治の交わるところ」第一回【中編】

⇒【前編】はコチラ

執筆意図と読者反応の違い

塚田:でも実は、「日本会議における政治と宗教の問題を初めてまとめた」と言われると、戸惑うところもあるんですね。紙幅の配分からいっても「日本会議研究」といえる部分は最初のほうの「第Ⅰ部 保守合同」にあたる70ページほど。そのあとの「第Ⅱ部 政教一致」の260ページは、その他の宗教団体の政治進出の研究なので。やはり、後半のほうが自分のなかではスタートであるしメインだという思いはありました。それらの対照群として、日本会議を含む前半を描いていったつもりなのです。その意味では、「戦後日本宗教のナショナリズムと政治活動」というテーマを突き詰めていったら、必然的に日本会議と宗教のことにも突き当たった、と言った方が正確かもしれません。  しかし、読者の方々の反応は違った。日本会議を扱った第Ⅰ部のほうが反響が大きい。著者としては、「そっちかいっ!」ていう(笑)。しかしやっぱり、「そっちなんだなあ」と強く思わされました。別にみんなそんなに幸福の科学=幸福実現党のことを気にしていないんだ、と。本書を刊行したことによる気づきでしたね。 菅野:ああそうかもしれませんね。幸福の科学の信者さんたちの「普通の人っぷり」というのはありますね。オウム真理教のようサティアンにこもったりだとか、千乃正法のところみたいに白装束着てたりするわけじゃない。大川隆法以外は「見えない宗教」のような側面はありますね。そういえば幸福の科学に関するちゃんとした研究もほとんどないですね。 塚田:情報が多すぎるし、研究意義も見出せないためか、特に国内では他に研究者は見当たりません。ほぼ独占状態でやっています。

やはり重要なオウム真理教研究

菅野:もはや「語り尽くされた」と思いがちなオウム真理教についても、純粋な宗教学的な見地というか、「分類して整理する」という学問的な手法による論考もほとんどない。

社会に大きな影響を与えたオウム真理教も、政治進出を目指していた。photo by Abasaa(PublicDomain)

塚田:オウム事件や現象に自らの考えやら感想やらを仮託した「オウム論」は、事件後から現在に至るまでたくさん溢れていますが……。  私も一部執筆させてもらった『情報時代のオウム真理教』(春秋社、2011年)。あれは本当に基礎的研究・資料集ですけど、事件後16年経ってようやく出た、という状態です。研究としては、まだまだこれからやることがたくさんあります。 菅野:世間的には、オウム真理教の研究っていうと、島田裕巳、中沢新一の二人の名前がでてくるんでしょうけど、あの二人の書いてることは「宗教学としての研究」というよりも、エッセーみたいなもんですしね。で、中沢新一がオウム真理教へ関与したことや扇動したことについて、ちゃんと総括したかといえば総括さえしてない。完全に逃げてる。 塚田:完全に逃げ倒してますね。  その点では、本書にオウム真理教=真理党の章も入れられたことは、著者としては重要かなと思っています。オウムの政治進出に着目したものは、今までないと思います。もちろん1990年の衆院選時の諸報道はありますし、麻原地裁判決(2004年2月)などで「選挙で惨敗したことが武装化への転機」とされたのは知られていますが、それで終わり。資料の無さもあって、すごく軽く見られていました。しかし、この章で一石を投じることができたかと思います。宗教団体が政治に出ることや関わることを、「ふざけている」「教団PRにすぎない」などとバカにしたり笑い飛ばしたりしていたが、当事者はそうではなかった。そうした一見したところのトンデモでドタバタな言動が、当事者にとってはきわめて真剣な彼らの論理においては合理的なものであり、その挫折が現世に自教団の独善的なユートピア建設を目指す宗教運動に大きな影響を与え、道をいっそう誤らせる原因となって最悪の帰結を迎えた……というのが、オウムのケースです。オウム真理教=真理党の政治進出の研究は、現在の経験知になるものだと思います。

宗教の政治進出を語る難しさ

菅野:宗教を「現世にユートピアをもってこようとするムーブメントだ」と規定すると、広い意味での政治参加というのは避けて通れないみたいなところはありますよね。選挙に出るという形にとどまらず、例えばアメリカのアーミッシュのように孤立して理想生活を営むとかいろんな方法はあったとしても、現世のなかに理想郷を作ろうとすることそのものは否定できない。 塚田:現世のなかで極楽を作る、天国を作る。いろんな言い方がありますけれどね。それに対して「社会を変えたいと主張するな!」とは言えないわけです。宗教団体といえども、それは当然の権利ですからね。 菅野:日本会議もその一つでしょう。ただ、日本の社会の側がオウム事件以降、宗教に対してナイーブになっちゃった。社会進出したり政治進出する宗教団体を、全て胡散臭いものだ、いかがわしいものだ、本来、宗教は政治に進出してはいけないものなんだと、思うようになってしまった。 塚田:「宗教は個人の心の問題、だから政治領域や社会領域にあまり出てこないで」という考えには根強いものがありますね。 菅野:お金がモチベーションだった土建屋さんたちとは違って、宗教心で動いてる人たちのほうがもっといかがわしいとか、そんなふうに総括をしちゃいがちなんですよね。でも民主主義のなかで、宗教団体であっても、選挙に自分たちの方針を立てるなり、特定の候補者を応援するなり、何らかの形で関与していのは当然の権利なんで、認めなきゃ仕方ない。 塚田:それ自体は当然のことですからね。ただそれが社会的に許容できない教義やイデオロギーに基づくものであったり、その行動が反社会的であったりした場合は……。 菅野:……潰すなり、怒るなり社会の側がしなきゃならない。ただ、オウムもそうだったと思うんですが、日本会議でも、「社会進出・政治進出してくる宗教」に対して、イロモノ扱いするか、いかがわしいものとして見ないふりをするかの両極端な態度しか、僕たちの社会は持っていないように思うんです。結果、その間隙をつかれて、わーっと全部持っていかれちゃうっていう怖さがあるなと。「お前ら、とんでもないじゃないか!」って声をあげるころになると、すでにtoo big to fail(大きすぎて潰せない)になっているのが怖いなとおもいます。それは、宗教団体側が怖いなというより、社会の側のナイーブさが怖いという意味で。 塚田:それはありますね。 菅野:フランスのライシテ(フランスにおける政教分離の原則・政策)みたいに「宗教が公共空間に入ってくるのは絶対ダメ」ってのは、フランスは共和国だからできることで、日本じゃなかなか難しい。もし日本があれを目指そうとすると途中で何千人もの人が死ぬような経験をしないと無理なんだろうと思います。だからなんとかして、うまい折り合いを付ける方法を見つけなきゃならない。 塚田:そういうなかで、宗教団体の政治進出や政治活動に対して、「気持ち悪いとか」「教団のPRでしょ」とか、あるいは「政教分離じゃないの」とだけ御題目のように繰り返すとか(国の見解として、宗教団体の政治活動自体は禁止されていない)、そういったナイーブで浅い向き合い方だとダメですよね。 ⇒日本会議を「陰謀論」的に語らせてしまうものに続く <文/菅野完(Twitter ID:@noiehoie)> 塚田穂高●1980年、長野市生。國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所助教。専門は宗教社会学で、新宗教運動・政教問題・カルト問題などの研究に取り組む。ちなみに、取材活動などがあるため残念ながら近影はNGとのこと。Twitter ID:@hotaka_tsukada
日本会議の研究

「右傾化」の淵源はどこなのか?「日本会議」とは何なのか?

宗教と政治の転轍点―保守合同と政教一致の宗教社会学―

戦後日本の宗教運動は、どのように、そしてなぜ、政治に関わってきたのか

関連記事