なぜ、今、「砂川判決」なのか──本当の問題点と珠玉の部分【江川紹子の事件簿】
2015.06.13
【江川紹子(えがわ・しょうこ)】 1958年、東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒。1982年~87年まで神奈川新聞社に勤務。警察・裁判取材や連載企画などを担当した後、29歳で独立。1989年から本格的にオウム真理教についての取材を開始。「オウム真理教追跡2200日」(文藝春秋)、「勇気ってなんだろう」(岩波ジュニア新書)等、著書多数。菊池寛賞受賞。行刑改革会議、検察の在り方検討会議の各委員を経験。オペラ愛好家としても知られる。個人blogに「江川紹子のあれやこれや」(http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/)がある。 記事提供:ムーラン (http://www.mulan.tokyo/) 新世代のビジネス・ウーマンのためのニュースサイト。「政策決定の現場である霞が関、永田町の動向ウォッチ/新しいビジョンを持つ成長途上の企業群が求める政策ニーズを発掘できるような情報/女性目線に立った、司法や経済ニュース」など、教養やビジネスセンスを磨き、キャリアアップできるような情報を提供している ※本記事の関連記事も掲載中 【江川紹子の事件簿】川崎市中一殺害事件 http://www.mulan.tokyo/article/33/最高裁の「砂川判決」が脚光を浴びている。 集団的自衛権の行使容認の違憲性が話題になるたびに、政府や自民党によって、半世紀以上も前に出された判決を持ち出される。衆議院憲法審査会で参考人となった憲法学者が、そろって審議中の安保法案を「憲法違反」と断じた後、政府が慌てて出した見解や自民党が所属議員に向けて配った文書でも、この「砂川判決」が使われた。 なぜ、今、「砂川判決」なのか。 集団的自衛権行使容認の牽引役となってきた高村正彦・自民党副総裁は、次のように語っている。 「この判決が、私が知る限り、最高裁が自衛権に触れた唯一無二の判決だ」 では、この唯一無二の司法判断は、果たして集団的自衛権を行使し、自衛隊を海外に展開させることを合憲と言っているのだろうか。 結論から言うと、NOである。 判決文のうち、政府や自民党が、繰り返し引用するのは、次の部分だ。 <わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとりうることは、国家固有の機能の行使として当然のことといわなければならない> そして、この判決では「個別的自衛権」と「集団的自衛権」は区別されていないから、<集団的自衛権を行使することはなんら憲法に反するものではないのです>(自民党所属議員宛の書面)という。 つまり、「最高裁が違憲だと言っていない以上、違憲じゃない」という主張である。最高裁が自衛隊に触れた唯一無二の判決
最高裁は、なぜ集団的自衛権を「違憲」としなかったのか。それは単に、自衛権の種類について話題にならなかったからにすぎない。この判決は、米軍基地の拡張に反対する人たちが基地内に立ち入ったことが犯罪になるかどうかが争われた刑事事件について出されたもので、争点は米軍の駐留の合憲性だった。 判決は、憲法9条の戦争放棄と戦力不保持によって生じた防衛力の不足を補うために、米軍の手を借りることを容認しただけだ。そのために、自衛隊が日本の外まで出て行って、米軍のお手伝いをする、という話は、かけらも出ていないのである。最高裁判決には「自衛隊」という言葉さえ出てこない。 話題にならなかったから言及しなかったものを、あたかも最高裁が認めているかのように言い募るのは、牽強付会に過ぎる。 この判決で、注目すべきなのは、政府や自民党が引用する一文ではなく、次の3点だろう。 ひとつは、米軍駐留の根拠になっている日米安保条約については、「高度の政治性を有する」ので「司法の判断にはなじまない」とする「統治行為論」などを持ち出して、判断を避けている点だ。一見して明白に違憲無効と判断できるものでない限り、違憲立法審査の対象にはしない、という考え方である。 最近、政府や自民党は、多くの憲法学者からの「憲法違反」との批判に対し、「憲法解釈の最高権威は、憲法学者ではなく、最高裁だ」として、最高裁の権威を強調する発言が相次いでいる。 しかし、日本の最高裁の違憲立法審査は、法案や法律そのものの違憲性を直接審査するわけではない。実際に訴訟が提起され、その事件を判断するうえで法律の合憲性が問題になった時に、初めて違憲立法審査が行われる。しかも、裁判は一審から始まるわけで、現在審議中の安保法案に関して、最高裁の判断が出るのは、おそらく相当先の話になる。 しかも、こうした安全保障法制は「高度の政治性を有する」のだから、「統治行為論」などによって最高裁は違憲判断は避けてくれるはずだ――これが、最高裁を持ち上げる政府・自民党のもくろみだろう。その前例としても、砂川判決は貴重なのだろう。 しかし、この「砂川判決」を、あたかも黄門様の印籠のように扱い、持ち上げてしまっていいのだろうか。 注目すべき2点目は、この判決の出自である。 砂川事件は、一審が米軍駐留を違憲として無罪判決が出たため、政府はすみやかに逆転有罪判決を目指すべく、高裁をすっ飛ばして最高裁に「跳躍上告」した。アメリカ側からプレッシャーはものすごかったようだ。駐日米国大使が日本の外務大臣に対して「跳躍上告」を促す外交圧力をかけたことも判明している。争点は米軍駐留の合憲性
プレッシャーは、日本政府だけでなく、裁判所にももたらされたようである。当時最高裁長官だった田中耕太郎は、何度も米国大使館などにおもむき、駐日米大使に対して、判決の時期や審理の進め方、見通し、一審判決批判などを説明している。大使が本国に送った報告の電文などが、米国側ですでに開示されていて、その事実を裏付けている。 判決前に裁判長がこのような情報を外部にもらすなど、通常では考えられないことだ。 日本の主権や司法の独立という点で、「砂川判決」は、戦後の司法の歴史の中で、最大の汚点とも言うべき出来事あろう。 日本国憲法を米国からの「押し付け」などと言って嫌う人たちが、こういういわば国辱的判決をありがたがる、というのは、非常に奇妙な気がする。 そのような判決でも、読み直してみると、当時の裁判官たちの思いと英知が込められた、きらりと光る部分はある。 それは、日米安全保障条約に関する司法判断を避けつつ、こう書いているところだ。 <第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする> 安全保障にまつわる条約という非常に難しい問題なので、司法が判断することはあきらめる。けれども、憲法の埒外の聖域に置いてよいわけではない。だから、とりあえずは条約を締結する内閣や批准を行う国会の判断に従うとしても、最終的には「主権を有する国民の政治的批判」に任せるべきだという指摘である。 この点こそが、「砂川判決」の肝であり、最も注目すべき珠玉の部分ではないか。ましてや、今回は国際的な条約とは異なり、国内法の制定なのである。 今回の安保法案に関しては、様々な報道機関が世論調査を行っているが、いずれも今国会での成立はすべきでないという意見が圧倒的である。法案に対しても、国会審議が始まってから、むしろ反対意見が増えている。戦後司法の歴史の中で、最大の汚点
たとえば、読売新聞が6月5~7日に行った世論調査。同社の調査では、この法案については、以下のように極めて誘導的な問いがなされている。 「安全保障関連法案は、日本の平和と安全を確保し、国際社会への貢献を強化するために、自衛隊の活動を拡大するものです。こうした法律の整備に、賛成ですか、反対ですか」 「日本の平和と安全を確保し、国際社会への貢献を強化するために、自衛隊の活動を拡大する」法案への賛否を問われて、「反対」とはなかなか言いにくいだろう。ところが、その結果は「賛成」40%(前回46%)、「反対」48%(同41%)と、「反対」が「賛成」を上回った。 しかも、「賛成」は前月の調査に比べて6ポイント下落し、「反対」は7ポイント増えている。法案の今国会成立については、「反対」が59%(前回48%)で約6割となり、「賛成」の30%(同34%)の倍近くに達した。 政府は、国民に対して責任を負っている。第一に果たすべきは、説明責任であろう。 ところが、この読売新聞の世論調査では、「政府・与党は、安全保障関連法案の内容について、国民に十分に説明していると思いますか」という問いに対して、「十分に説明している」と回答したのは、わずか14%。実に80%が「そうは思わない」と答えている。この数字は、前月の81%とほぼ横ばい。国会審議が始まっても、政府の説明責任は果たされていない。 最高裁の「砂川判決」は、集団的自衛権については触れていないが、安全保障がかかわる司法判断が難しい問題も、「主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべき」とは明記している。判決が書いていないことを、あれこれ推測するより、書いてあることを大事にすべきだろう。 「砂川判決」が大事なら、「主権を有する国民の政治的批判」を無視し、今国会成立にこだわることは、とうていできないはずである。【了】判決に書いてあることを大事にすべき
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