モノを言わせない「時代の空気」に思うこと【対談:江川紹子×大石静】
2015.05.12
●江川紹子(えがわ・しょうこ) 1958年、東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒。神奈川新聞社で警察・裁判取材や連載企画などを担当した後、29歳でフリーランス・ライターに。1989年から本格的にオウム真理教についての取材を開始。「オウム真理教追跡2200日」(文藝春秋)等、著書多数。菊池寛賞受賞。オペラ愛好家としても知られる。個人blogに「江川紹子のあれやこれや」(http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/) ●大石静(おおいし・しずか) 1951年、東京都出身。日本女子大学文学部国文学科卒。1986年に脚本家としてデビューして以来、数多くの作品を手がけ続ける。NHK連続テレビ小説「ふたりっ子」で第15回向田邦子賞/第5回橋田賞をダブル受賞。「セカンドバージン」(NHK)で東京ドラマアウァード2011・脚本賞。 「四つの嘘」(幻冬社)など著書多数。他に、作詞も手がける。公式blogに静の海(http://blog.5012.jp/ohishi/profile.html) 記事提供:ムーラン (http://www.mulan.tokyo/) 新世代のビジネス・ウーマンのためのニュースサイト。「政策決定の現場である霞が関、永田町の動向ウォッチ/新しいビジョンを持つ成長途上の企業群が求める政策ニーズを発掘できるような情報/女性目線に立った、司法や経済ニュース」など、教養やビジネスセンスを磨き、キャリアアップできるような情報を提供している ※【江川紹子×大石静 生涯現役力】はムーランにて連載中 「仕事をしないと生きられない」 http://mulan.tokyo/article/12/編集Y:前回の対談では、次は「時代の空気」についてお話いただくことになっていました。率直にいって、「現在(いま)」という時代をどうご覧になっていらっしゃいますか? 大石:全体的に「モノを言わせない」空気を感じるわね。マスコミもすごく自主規制をしていて、本来の役割を果たしていない感じがする。報道を見ていて感じるのは、新聞にはまだ自由があるけれど、テレビはどんどん窮屈になっているのではということ。 江川:テレビでは、苦情が来るかもしれないと考えて、あらかじめ自制してしまう傾向が強い。四方八方に気を遣って自粛を重ねているうちに、表現の幅や機会がどんどん狭くなってきているのでは。 選挙の時などに、与党がテレビ局に細かく注文をつけた問題もありますよね。あるいは、気に入らない放送をしたら取材拒否とか。 そういうことがあると、どんどん無難な方向に行ってしまうんじゃないか。かと思うと、一時の朝日新聞叩きのように、何か弱味があると、ことん叩きまくる。 やっぱり、ちょっとバランス悪すぎですよね。社会も政治もメディアも。バーっと突き進んで、「ブレーキ」がない状態だと感じる局面が最近増えました。 大石:メディアだけでなく、社会全体もバランスが悪くなっているというか、「異なる意見」に対して許容量がなくなっているように感じるな。マスコミは本来の役割を果たしているか
編集Y:「言葉狩り」のような風潮も強まっています。 以前、大石さんが新聞に書かれていましたが、ある連ドラをやっていた時に、「お父ちゃんは『中卒』だけど、日本一の豆腐屋だ」という台詞を台本に書いたら、関係者から、「『中卒』は差別用語だからやめてくれ」と言われたそうですね。 大石:「『中卒』、『高卒』、『大卒』は単語でしょう。そもそも褒めてる台詞だ」と、反論したけど、受け入れられなくて、「じゃあ、何ならいいんですか?」と聞いたら、「高校にも行っていない」ならいいと。 私、驚愕して、2ヶ月ぐらい筆が止まっちゃったのよ。向こうも譲らないから、「中卒」という言葉のために私が辞めるか、妥協して続けるか、になってしまったことがある。 江川:そういう問題って何十年も前からありますよね。確かに、そうした言葉狩りのような現象は、最近、とみに顕著になっているような気がする。 編集Y:ネットでは、特に、揚げ足取りのような「言葉狩り」が少なくありません。ネット空間は、社会的には声の小さいはずの人が大声で叫べる場じゃないですか。それが時代の空気に少なからず影響しているような気もします。強まる「言葉狩り」現象
江川:それを時代の空気にしたらいかんと思う。ただ、ネットに見られる極端で攻撃的で、異論を許さない声は、リアルな世界では、幸いまだ多数派ではない。選挙だって、安部ちゃんの自民党は勝ったけど、もっと過激なことを言っている党は壊滅状態になったじゃないですか。 ネットで飛び交う過激な言論だけを見ていると、極論への支持が盛り上がっているから、それが時代の空気のように錯覚して、気持ちが押されがちなんだと思うんです。 しかし、その空気は「ネット空間」のもので、私たちはリアルの世界で生きているわけですから、そこを勘違いしちゃいけないし、これを社会全体の空気にしてはいけない。 そのためにも、自由な表現ができる環境は大事だし、一部の過激な言論に気圧されないで、がんばらないいけないですね。 大石:また、教育の話に戻っちゃうだけど、やっぱり、「そこ(ネット)に出ている情報はどうなのか」、「自分はどう思うのか」と、自分自身に問いかけてみることが大事だという教育をしていないから、反対のこと言って、損するよりいいやみたいな感覚になりがちなんだと思う。 先生も、授業中、床に寝っ転がっている子どもにさえろくに注意できない時代じゃない。そうすると、子どもだって、とにかく、損しないよう、損しないよう、強い方に寄り添った方がいいと安易に考えるようになる。 時間がかかってもいいから、個人個人がどう思うのか、自ら考え、意見を述べ、述べたことに対する責任を持つという教育をしないと、そうした子どもたちが、大人になった時に、「とにかく強い者に寄り添っちゃえ」という安易な思考を次世代に伝えることになる。 編集Y:今回は、メディアのあり方についてだけでなく、道徳教育についても考えさせられました。次回は、道徳教育の部分をもう少し掘り下げて、おふたりに語ってもらいたいと思います。【了】ネットの過激な言論はリアルな世界では多数はではない
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