photo by Kakidai(CC BY-SA 3.0)
現在訪米中の安部首相は、一連の外遊に先立つ4月21日、靖国神社の春季例大祭に合わせ、真榊(まさかき)を奉納した。
インドネシアで開催されたバンドン会議でアジア各国首脳と会談する直前でもあり、また、かねてより「戦後70年談話」で歴史認識が再び注目を集めている最中であることを意識してか、参拝は取りやめた。
しかしながら、同日、衛藤晟一首相補佐官が靖国神社に参拝。また、これに続く23日、有村治子女性担当相 山谷えり子国家公安委員長 高市早苗総務相の3閣僚が参拝した。
首相が周辺諸国を慮って参拝をとりやめるなか、ここまで一部閣僚が靖国神社にこだわる様は執着心のようなものを感じずにはいられない。
衛藤晟一、有村治子、山谷えり子、高市早苗。。。
今回も見事に「日本会議国会議員懇談会」に所属する議員たちばかりだ。
特に衛藤晟一と有村治子の両名は、「日本会議国会議員懇談会」に所属するだけでなく、日本会議の事務局である右翼団体「日本青年協議会」(※) の組織候補という側面をもつ。
この両名の(とりわけ衛藤晟一)の来歴を明らかにするだけでも、日本会議の成り立ちと狙いが明確になるため、彼らの名前は今後も本連載に度々登場することになろう。
しかしまず今回は、彼らの来歴を明らかにするためにも、「なぜ日本会議とその周辺がここまで靖国神社にこだわるのか」について考えていきたい。
日本会議は、「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」の2団体が合併して設立された団体であり、両団体の設立にあたって椛島有三率いる「日本青年協議会」が事務局として参画し、学生運動出身という来歴を生かし戦後の保守運動に新風を吹き込んだことは、元号法制定運動を振り返るかたちで、本連載でもすでに述べた。
一方、元号法制定運動の華々しい成功とほぼ同時期に手痛い失敗を経験した保守運動がある。
それが、「靖国神社国家護持法制定運動」だ。
1945年12月15日、GHQは日本政府との間に「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)と題する覚書を締結する。のちに「神道指令」と呼ばれることとなるこの覚書により、政府機関であった神祇院が廃止され、靖国神社をはじめとする各地の神社は、国家機関とのつながりを失った。
続く12月28 日には、この覚書に基づき、「宗教法人令」が公布される。「宗教法人令」は、戦前の「宗教法」が定めていた文部大臣による宗教団体の許認可と監督権限を廃止し、届け出さえすれば誰でも自由に宗教団体として活動できるという内容だった。この「宗教法人令」に基づき、靖国神社をはじめとする各地の神社も、キリスト教や仏教の団体と同じく、宗教法人として並列の存在となり、法的には完全に国家神道の根拠が否定されることとなった [大沢, 2012]。翌1946年1月1日にはいわゆる「人間宣言」が出され「現人神」とされていた天皇が自ら世俗化を宣言する。法的分野のみならず思想としても神権政治の要素が完全に否定されたのだ。さらに、同年11月に公布された日本国憲法では明確に政教分離原則が掲げられた。
この一連のプロセスにより、「国家神道制度」は名実ともに解体され、その一環として、靖国神社も、国家との関連性を完全に失うこととなる。
しかし、いかに憲法や政令で神社と国家の結びつきが否定されたとはいえ、靖国神社自身が靖国神社の自身の行為として神道にのっとり戦没者を慰霊することには変わりがない。また、敗戦直後の国民、とりわけ戦没者の遺族にとっては、靖国神社がこそが公的な慰霊の場であるという認識には変わりがなかった。
そこで、靖国神社や遺族たちは、いまいちど国家と靖国神社の結びつきを構築しようと、国に対し「靖国神社国家護持法」の制定を求める運動を開始する。
日本遺族会(当時の名称は日本遺族厚生連盟)が1952年に開催された第四回全国戦没者遺族大会で「靖国神社の慰霊行事は国費をもって支弁する」ことを議決したことをかわきりに、この運動は、神社本庁や靖国神社、そして郷友会と名前を変えた在郷軍人会を巻き込んで大規模化していく (猪野, 1979)。一説によると1970年までの20年弱の間に集められた署名の累計は、1200万人分に上るという [ルオフ, 2003]。
これほど大量の署名を集める運動を展開しながらも、靖国神社国家護持法案は国会提出にさえこぎつけない状態が続いた。
原因は、意外にも宗教界からの反発だ。
靖国神社と国家の結びつきを再構築しようとする「靖国神社国家護持法案」に、戦前の国家神道と宗教弾圧の影をみてとった宗教界は、教派を問わず大規模な抗議活動を展開した。キリスト教各派で構成される「日本基督教協議会」や立正佼成会が中心の「新宗連」、そして「教派神道連合会」「全日本仏教会」など、教派の新旧や信仰対象をこえての大反対運動が繰り広げられるようになったのだ。なかでも「日本基督教協議会」は、設立以来初であるという大規模デモを東京 大阪 名古屋などの大都市で繰り広げ、猛烈な反発の姿勢を示した [猪野, 1979]。
神社本庁・靖国神社そして遺族会からの要請と、宗教界からの反対意見の板挟みになるなか、自民党は、靖国神社創立100周年にあたる1969年、ついに「靖国神社国家護持法案」を国会に提出する。
この法案では、憲法の政教分離原則に抵触せぬよう、儀式の簡略化など慰霊行事の宗教性を薄めるとともに、靖国神社の法人格を宗教法人から特殊法人に変更するという条件が課せられることとなった [藤本 塚田, 2012]。
ところがなんと今度は、当の靖国神社と神社本庁が自民党法案に反対を表明したのである。儀式から宗教色がなくなり法人格も宗教法人でなくなるのであればなんら意味がないというのが、彼らを法案反対に回らせた理由だ。
あくまでも「宗教としての国家護持」にこだわる神社本庁と靖国神社の姿勢は、大いに物議を醸した。これまで各種宗教団体が主な担い手だった反対運動に、「狙いは政教一致の再現だ」と気づいた左翼勢力も加わり、激しさがましてゆく。
一方、強固な反対姿勢をみせていた宗教界の中からも「靖国神社を非宗教化して特殊法人として国家が支えるという自民党プランであれば許容できる」と、自民党法案に賛成に回る宗教団体が現れるようになる。
かくて、自民党が国会に提出した「靖国神社国家護持法案」は賛成陣営反対陣営の両方に亀裂を生み、廃案につぐ廃案を重ねることとなる。ついには、1973年を最後に法案提出さえされなくなってしまった [ルオフ, 2003]。
⇒【後編】「日本会議は靖国参拝の先に何を目指すのか?」 https://hbol.jp/37695に続く
※ 「右翼問題研究会」なる団体が立花書房から1998年に発行した『右翼の潮流』という書籍がある。この書籍は日本全国の右翼団体について網羅的に記載されたレファレンスだが、この書籍で日本青年協議会は、防衛庁突入事件を起こした「日本青年社」や長崎市長殺人未遂事件を起こした「正気塾」と並んで「単一右翼団体」として掲載されている。本稿もこの「右翼の潮流」の規定にのっとり日本青年協議会を右翼団体と呼称する。なお、立花書房は「月刊治安フォーラム」の発行元であり「警備判例解説集」など警察関係の書籍専門の出版社であることを申し添えておく。
[参照文献]
猪野健治, 1979, 「神道系中小教団の”新民族派”宣言」『現代の眼』20(11):150-159.
大沢 広嗣, 2012, 「宗教法人とはなにか」 高橋典史 塚田穂高 岡本亮輔編 『宗教と社会のフロンティア』 勁草書房, 66-72.
ルオフ, K. 2003, 『国民の天皇』 共同通信社.
藤本龍児・塚田穂高, 2012, 「政治と宗教 ー現代日本の政教問題」高橋典史 塚田穂高 岡本亮輔編 『宗教と社会のフロンティア』 勁草書房, 197-218.
<文/菅野完(Twitter ID:
@noiehoie)>