「中学受験塾」栄枯盛衰のメカニズム
年度も変わった4月は日本では新入学の季節。今年も長くて辛い受験勉強を乗り越えて多くの新入生たちが、晴れて入学式を迎える。受験といえば真っ先に大学受験が思い浮かぶと思うが、今、最も熾烈な競争となっているのは中学受験かもしれない。地方では中高一貫校の数自体が少ないのでピンとこないかもしれないが、首都圏では学年の半数以上が中学受験をする小学校も少なくない。
その中学受験における進学塾のトップブランドは時代とともに入れ替わってきた。読者が持つ記憶も、世代によって異なるのではないだろうか。
まず、草分け的存在として挙げられるのが「日進(日本進学教室)」だ。ほぼ富裕層に限られていた中学受験が庶民にも認知され始めた50年ほど前は、日進が最も権威ある進学塾だった。ところが、昭和50年代になると、徐々にその座は「四谷大塚」に取って代わられることになる。
その理由の一つとして、日進と四谷大塚はともに日曜日に模試を行う「テスト塾」だったが、四谷大塚が「予習シリーズ」という画期的なテキストを作りだし、独自のカリキュラムを開発したことにもあるといわれる。今日でも塾の栄枯盛衰はカリキュラムの出来に左右されるようで、森上教育研究所の森上展安氏は次のように語る。
「進学塾の優劣は、つまるところどれだけ難関校に合格者を出せるかで決まりますが、中学入試の問題傾向は年々変わっています。例えば、現在では算数の入試問題では、数学の考え方に近いものが求められるようになっている。そのためには、どれだけ入試問題に則したカリキュラムを組んで授業を行えるかが重要になります」
また、時代が平成に変わる頃から中学受験市場を席巻する「日能研」は、その“利便性”も大きく貢献した。四谷大塚の頃までは一部の教育熱心な家庭が都心にある進学塾に子供を通わせるという時代で、「そこまではちょっと」という家庭も多かった。ただ、近所に進学塾があるのなら試しに行かせてみようかという気持ちにもなる。
「そこで四谷大塚のような“ダウンタウン型”ではなく、住んでいる地域に近い“郊外型”の進学塾が数多くできました。その代表が日能研でしょう。その意味では日能研が中学受験の裾野を広げたといえます」(森上氏)
神奈川発祥の日能研は都内私鉄沿線に数多くの教室を開いて飛躍的に成長し、当時はどこの街に行ってもNカバンを持つ子供の集団に出くわしたものだ。ところが、ビジネスとしてあまりに成功したことが、今度は逆に足かせとなってしまう。生徒数が多くなればなるほど、言葉は悪いが「玉石混交」となるのは自明の理。また、1クラス40人などマンモス教室化することで授業密度も低下せざるを得ない。そうなると、子供の難関校受験を目指す親からは不満の声も出てくる。
そうしたハイエンド層を取り込み、今世紀になってその地位を盤石にしたのが現在のトップブランド、サピックスだった。
「1クラス15人程度の少数精鋭教育を売り物に優秀な生徒を集め、今や他を寄せ付けないダントツの合格率を誇っています。開成中学の合格者が200人を超えるなどということは、今までに例がありません」(森上氏)
森上氏が言う通り、“御三家”と呼ばれる最難関校の一角、開成中学には11年度以降、毎年200名以上の合格者を輩出している。15年度も合格者395人中サピックスの生徒は245人、実に6割を超える数字だ。その他の難関校についても、その実績は抜きんでている(関西には「浜学園」という灘中学に滅法強い進学塾があるが)。その影響で隆盛を誇った日能研の生徒数は、全盛期の半数程度にまで減ってしまったという。
サピックスは最難関校に的を絞った高度なカリキュラムを組んで、ついてこられる生徒だけついてくればいいというスタンス。その結果として淘汰を経た生徒の質は純化され、上記のような圧倒的な合格者数を叩き出すわけだ。10年に代々木ゼミナールに買収されたことで心配する声も上がったが、実際は校舎閉鎖などを余儀なくされている“斜陽”の代ゼミが、優秀な子供を囲い込んで大学受験の際は代ゼミに通ってもらうことを狙って“青田買い” したのだという。
とはいえ10~15年のスパンでトップブランドが入れ替わってきたことを考えれば、サピックスがこの先も天下をとり続けるとは限らない。次にトップに就くのは、その座を虎視眈々とトップを狙う早稲田アカデミーなどの大手塾なのか、あるいは新たに勃興する勢力なのだろうか。
<取材・文/杉山大樹>
ハッシュタグ