―― 目の前の出来事に気分で反応したり、投票率が低下するといった傾向は、日本だけでなく世界的に見られます。人々が主権を行使しなくなる原因は、家族国家論以外にもあるのでしょうか。
白井 新自由主義化も要因の一つで、これは世界共通ですね。新自由主義には社会そのものを消滅させる働きがあるので、新自由主義化が進めば、人間が社会的存在でなくなってゆく。もちろん主権者としての意識が確立されるプロセスもなくなってしまいます。日本の場合は家族国家論に新自由主義が重なり、酷い状況が生まれていますが、他の国にも多かれ少なかれ類似の状況はあるのでしょう。
かつてイギリスのマーガレット・サッチャーは「
社会などというものは存在しない」と述べました。これは「何でもかんでも政府が面倒を見るべきだ」という福祉依存的メンタリティを批判し、小さな政府を推し進めようという呼びかけでした。
しかし、この言葉の土台にある世界観は、サッチャーが直接に意図した以上の結果をもたらしてきました。小さな政府を目指す民営化や規制緩和は、行政機構のスリム化にとどまらず、
人間生活に必要なインフラストラクチャーの公共性を否定するまでに至ったのです。
水道の民営化などはその典型ですね。
2019年に台風19号が東日本各地に甚大な被害をもたらした際、日経新聞は凄まじい記事を載せました。「
『もう堤防には頼れない』 国頼みの防災から転換を」という見出しで、「近年、頻発する災害は行政が主導してきた防災対策の限界を示し、市民や企業に発想の転換を迫っている」として、堤防増強などの「安易な積み増しは慎むべきだ」と主張しました。古代文明を参照すればわかるように、治水は文明の起源であり、治水する権力は国家が成立した大きな要因の一つです。日経新聞はそれを不要だと宣言したのです。彼らには
社会や国家という発想が全くないのです。まさに、「社会などというものは存在しない」というわけです。
「社会の消滅」は若者の間でも見られます。身近な例をあげると、私は大学で主に社会科学を教えており、学生たちが何らかの社会問題を発見し、そこから社会科学的発想の重要性を認識することで、主体的な学びへと進んでいってもらいたいと考えています。しかし、授業で「自分が気になる社会問題をあげて簡単なプレゼンテーションをしなさい」という課題を出しても、ただただ困惑するだけで、何も答えられない学生が増えています。彼らは社会全般に対して関心がないのです。
これは社会に期待できないから、社会への関心を失ったということではありません。いまの学生たちは、新自由主義によって社会が消滅した世界の中で育っているので、社会の存在を認識できないのです。社会が存在しないのだから、社会に対して関心が持てないのも無理はありません。
そういえば、最近「
うっせぇわ」というミュージックビデオが大ヒットしており、ユーチューブで1億回以上再生されています。社会の常識とされているものに対して「うっせぇわ」と不満をぶつけていくという内容です。興味深いのは、反発が内向しているところです。1980年代にヒットした尾崎豊やチェッカーズなどは、校舎の窓ガラスを叩き割ったり、大人に反発して殴られたりと、物理的な衝突を歌詞にしていました。しかし、「うっせぇわ」は、不満は強烈でも、行為には結びつかない、結びつけられない自分を自嘲的に歌っている節がある。なぜなら、いまの日本の世間は、逸脱行為に対して極度に不寛容になっているからです。ですから、社会は蒸発しながらより一層抑圧的になっていることの証明のように感じられます。
―― 日本政府の失政のために、コロナによって亡くなった人たちはたくさんいます。しかし、日本人は自分たちの身体や生命が危険にさらされているという感覚がありません。言うなれば、何度も殴られ、流血しているのに、そのことに気づいていないという状態です。
白井 その通りです。いまの日本人に必要なのは、自分たちが殴られているということに気づくことです。日本の新型コロナ対策は、アジア太平洋地域の中で最低水準です。このままでは近い将来、世界の多くの国や地域がコロナから脱する中で、日本だけ脱出できないという状況になりかねません。また、コロナによって女性や若年層の自殺が増えており、心身に変調をきたしている人も少なくありません。
ところが、日本人の多くはこれを仕方ないことだと受け止めているのか、「こんなことをされるのは我慢ならない」という声をあげようとしません。散々いじめられ、からかわれ、いたぶられているにもかかわらず、ニヤニヤしているようなものです。痛覚がなくなってしまっているのです。そのような人を見ていると、「ああ、かわいそうだ」という感情より、「いつまでヘラヘラしているんだ」という怒りが湧いてきますね。
自分自身の痛みを感じられない人は、他人の痛みも理解できません。だから日本では女性差別をはじめ、マイノリティへの差別が横行しているのです。
こうした状況から脱却するには、理性や意思よりもさらに基礎的な「感性」にまで遡る必要があります。私はこの問題を『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社)で取り上げ、資本主義に抵抗するためには感性が重要になると指摘しました。第一次ロシア革命の最中に起こった戦艦ポチョムキンの反乱は、腐った肉を食わされたことから始まりました。「腐った肉は我慢ならない」という感性が、上官を倒す階級闘争にまで発展したのです。
これは資本主義に対抗するときだけでなく、主権について考える際にも重要になります。「これはおかしい」という当たり前の感性を取り戻すことが、社会との葛藤をもたらし、主権の確立につながるのです。安倍晋三とその支持者たちが唱えてきた憲法改正などは小手先の話であって、そんなことをしても意味がありません。主権者としての自覚のない人間が憲法制定を行うということは、背理であり不条理にすぎません。改憲を言うなら、憲法を定めるに値する国民がいなければならない。それがいないのならつくり出さなければならない。
そのときに感性こそが原点になるのです。国民一人ひとりが感性のあり方を見直し、人間の立て直しを図ること、私たちはそこから始めるしかないと思います。『主権者のいない国』には、そうするためのヒントを盛り込んだつもりです。
(3月31日 聞き手・構成 中村友哉)
<記事初出/
月刊日本2021年5月号より>