呉座勇一「炎上」事件で考える、歴史家が歴史修正主義者になってしまうということ

歴史修正主義は「無知」が原因ではない

 今回の事件は図らずも、歴史修正主義に対抗するためにある種の国民史を立ち上げようとする呉座勇一の(そして辻田真佐憲の)プロジェクトの不成立を明らかにしてしまったともいえるだろう。歴史について知りたいが難しい専門書を読む時間的余裕がない「無知」な一般の人々が、学問的水準は低いが読みやすい通俗的歴史本に手を出してしまい、歴史修正主義者になっていく、というのが「物語」必要論の前提であった。しかし、たとえ歴史学に詳しい専門家であっても歴史修正主義者になってしまうということを、彼自身が証明してしまったのだ。  確かに歴史修正主義の商業的な陣地戦のあなどれなさはあり、警戒することは重要だ。だが一方で、日本軍の戦争犯罪や植民地の問題について発信している側が、特段に難解な実証主義的言語を用いているとも思わない。歴史修正主義に対抗する本はこれまでも出版されているが、わかりやすく市井の人々に届くように工夫されていると思う。  人々が歴史修正本を手に取ってしまうのは、それが彼らの、単に歴史を知りたい以上の期待に応えているからだろう。視聴率の問題に苦しむテレビ業界が、「日本スゴイ!」番組をつくるのは、そこに一定の視聴者が見込めるからだ。  人は読みたいもの読む。日本の歴史を学びたい人は、耳が痛くなる歴史よりも、日本の素晴らしさを学びたいのだ。呉座が主張するように面白い歴史の中に目を背けてはならない負の歴史を挿入する「両論併記」型の戦略をとったとしても、売れるかどうかは怪しい。結局はさらに耳心地がよい歴史「物語」を人は選択してしまうかもしれない。

歴史修正主義に対抗できるのは物語ではなく人権

 それでは、歴史修正主義に抵抗するすべはないのか。『教養としての歴史問題』の座談会では、前川一郎が人権教育の重要性を訴えている。筆者も、結局はその道しかないだろうと考えている。歴史修正主義者の議論には、必ずといっていいほど差別などの反人権的要素がある。読者の人権意識が向上すれば、たとえ歴史の知識がなくても、歴史修正本の違和感に自ら気づくことができる。  歴史認識問題を、国家間の問題、あるいはイデオロギーの問題として図式化する議論は多い。しかしそれは、歴史認識の相対主義を前提にしており、歴史修正主義が生き残る余地を残す。歴史認識の相対性については、2000年代のネット掲示板的な文化に浸かっていた人たちにとって内面化されている場合が多い。前川が人権を持ち出してきたときの呉座の反応は鈍く、結局は従来のウヨサヨ論に戻ってしまったことは印象的であった。  左右の歴史認識の「中道」を取ることは、「現実」への「妥協」として仕方がないと言う人もいる。そもそも、この分野では優等生とされるドイツも含めて、負の歴史にしっかりと向き合うことに成功している国はない。だが、戦争犯罪や植民地の問題を人権の問題として考えるのであれば、やはり「妥協」の余地はないとされなければいけない。  3月末に起きた一連の事件は、いろいろな意味で個々人の人権が問われていたといえるだろう。ハラスメントの問題についてはようやく深刻に受け止められるようになってきたが、一方で今の日本では、歴史修正主義への加担は研究者あるいは文化人としての致命的な汚点とはならない。しかし、やはりそれは人権意識が問われる問題なのであり、セクシュアルハラスメントなどの問題と同様、研究倫理の一貫として考えるべきトピックなのだ。 <文/藤崎剛人>
ふじさきまさと●非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ:過ぎ去ろうとしない過去 note:hokusyu Twitter ID:@hokusyu82
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