誰にでもある「かけがえのない日常」を描くこと――『街の上で』今泉力哉監督に聞く

下北沢の古着屋で働く青年を軸に描く『街の上で』

(c)「街の上で」フィルムパートナーズ

(c)「街の上で」フィルムパートナーズ

 一昨年『愛がなんだ』(2019年)でブレイクを果たした今泉力哉監督。群像劇や恋愛映画の名手として知られ、近年では『アイネクライネナハトムジーク』(2019年)など商業映画の世界で数々のヒット作を生み出している。  しかし、その原点は自主映画にあり、『街の上で』は「自主映画の撮影」を題材とした、まさに原点回帰とも呼べる、かつ、これまでの今泉映画を総括する「最高傑作」とも言うべき作品だ。  本作は、下北沢の古着屋で(本を読みながら比較的ぼんやりと)働く青年・荒川青が、ふとしたきっかけで自主映画の撮影に呼ばれるというできごとを軸として、監督の高橋町子、スタッフの城定イハ、ひいては行きつけの古本屋の店員・田辺冬子や、最近別れた恋人・川瀬雪など、数日間における女性たちとのなにげない接触を描く。  逆に言えばただそれだけの、特別なことは何も起こらない映画だが、それがなぜここまで面白くなるのだろうか(これは筆者の主観のみではなく、試写などで事前に本作を鑑賞した知人に聞いても、その多くが絶賛の反応となっていることを受けての記述である)。  今回は前回に引き続き、台詞の作り方や俳優を選ぶ基準、コロナ禍の今に思うことについて、監督に話をうかがった。

台詞へのこだわり

――本作は台詞が魅力的です。ひとつひとつの台詞が紋切型ではなく、その場で考えた感じがするライブ感と新鮮な響きがあって、印象に残ります。(個人的に好きだったのは序盤に現れる、「あれだろ、物書きにはずっと苦悩してて欲しいみたいなやつだろ、書けない、書けない、書けない、原稿丸めてポイみたいな」でした)
今泉力哉監督

今泉力哉監督

 台詞にはこだわりがあります。ほかの脚本家さんと組むときも、一度持ち帰って自分で書き加えたいと思うくらいには、一語一句気にしてますね。 ――特に言葉の面白さを感じたのは、青が映画の撮影後に初対面のイハの家を訪れたのち、ふたりで夜通し、えんえんと語り合うシーンでした。そこで語られるのは主に恋バナで、けっして特別な内容ではなく、さらに言えば生産性のある内容でもありませんが、逆にだからこそというのか、「(自分たちの)日常でもありそう」と思わず膝を叩きたくなるような納得感がありました。  そう思っていただけるのだとしたら、ゴールがあってそこに向かって書いているわけではない、という作劇の方法が大きいと思います。また、自分の台詞の書き方で顕著なのは、話し出しに「え、それはさ」とか「いや、でもね」のように「え」とか「いや」とか、ノイズをたくさん入れるんです。「~なんだよね、私は」みたいに、意識的に倒置法を使ったりもします。間も多用する。そうすると日常のしゃべりに近づいていくんです。ただ、入れなくちゃダメみたいに強制するわけじゃなくて、俳優さんがやりにくかったらやらなくていいと言いますし、どれだけ自然になるかを考えています。あのゴールのない長い会話のシーンがあることで、『街の上で』はほかの監督には撮れない映画になった気がします。改めて、台詞は自分のひとつの核だなと確認できました。 ――一対一の会話の面白さもあれば、多人数での会話の面白さもあります。そのあたりの区別はどのようにつけていらっしゃいますか。  多人数の場合は「知っている」「知らない」の、それぞれのキャラクターが持っている情報の差、また、知るタイミングを意識します。たとえば終盤で青と雪が再会した際、青の隣にはイハがいる。もちろん青とイハは自分たちがどういう関係なのかはわかるけど、雪はイハと初対面なので、ふたりがどういう関係なのかがわからず、そうしたずれから面白さが生まれます。お客さんが先に知っていて登場人物は知らないという状況が面白い場合もありますし、登場人物とお客さんが同時に何かを知ったほうがいい場合もあります。
(c)「街の上で」フィルムパートナーズ

(c)「街の上で」フィルムパートナーズ

 人数の多さが生む効果に関して言えば、むかし群像劇をやっていた時は、どんだけとっちらかっても全員を集めたら終われるという意識がありました。集合させれば終われる(笑)。その時期につくった作品にキャストが揃っての大団円を迎える、『こっぴどい猫』(2012年)や『サッドティー』(2014年)があります。 ――群像劇へのこだわりについて、お教えいただけますか。  主人公のためにほかの人が存在するようなことには興味がないんです。そうした自分の好みに従っていくと、自然と群像劇になる。逆に言うと一人を掘り下げられないということでもありますけど、でも主人公じゃない人の人生にも興味があって。横の人をおろそかにせずやってきました。  いまでこそ居酒屋や喫茶店のシーンでは、エキストラの方に入っていただいていますけど、初期の短編の時はエキストラは0人でしたし、エキストラという概念がいまだに引っかかっています。頭の中での理解はできるんですけど、その人たちの人生もあると思うと、なかなか置きたくないというか。めんどくさい人ですね、私。 ――エキストラという言葉からして、なかなかに強いですよね。世界が主人公のまわりだけで構築されていて、そこから完全に置き去りにされた人たちというような……。  すごい言葉ですよね。それが嫌で。逆にいえば、主人公っぽさがない人が主人公の作品を作りたいと思って。青だって別に何の主人公でもない。誰かの代理で映画に出て、その撮影自体も、自身の恋愛も思い通りにならなかったりして (笑)。 ――そうですね。劇中での青は大きく注目されたり、特別なできごとが起こるわけではありません。むしろ、誰にでも起こる話だからこそ、かけがえがないのだと感じます。  それを面白くするのは難しいですけどね。むかし、とある映画祭にノミネートされて上映された『微温(ぬるま)』(2007年)という映画が賞をいただけなくて、打ち上げで審査員だった万田邦敏さん(作品に『接吻』など)にどこがだめだと聞いたら、2つの指摘をいただいたことがあります。  ひとつは、「日常劇をやっているけど、日常劇と大きなできごとを扱った作品とでは、どうしても後者の方が観客の気持ちを動かせる」と言われたんです。それに対しては、「でも私は今後も日常劇で頑張ります」と発奮したんですけど、もうひとつの指摘については、のちのちめちゃくちゃありがたいことを言われたと思っています。「凝ってるね」って言われたんです。もちろん悪い意味です。「『微温』は映画のいちばんの魅力が“構成”になってしまっている。やはり構成よりも“人間”や“感情”が一番の魅力になっていたほうがいいのではないですか?」と。つまり、複雑なストーリーテーリングや時間軸、時系列を操作したり、ばらばらに見えたことを一つにつなげるようなことが一番の魅力っていうのは、やはり違うのではってことです。映画本来の魅力ってそこじゃないのでは、という。そういうギミックは枝葉のことで、幹や根はやはり人間を描くことでなければならない。今なら物凄く腑に落ちる。自分自身も作っていくなかで、どんどん凝った構成には興味がなくなっていきましたね。
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