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少子高齢化が進む日本で「婚活」がブームになり、近年ではそれ自体が特別な言葉ではなく、日常の中に浸透してきた。特に私のようなアラサー世代だと「結婚」や「婚活」という単語を目にしない日はない。
とはいえ、日本では生涯未婚率が右肩上りで、国立社会保障・人口問題研究所の2020年版「
50歳時の未婚割合」によると、男性のおよそ4人に1人、女性のおよそ7人に1人が未婚とある。
しかしこれも、見方を変えると、未だ既婚者が未婚者を上回るという点、結婚それ自体を疑問視する動きがあるという点で、結婚という価値観が私たちの生活の中で重要な位置を占めていると言っても過言ではないだろう。
ではそもそも論で、「結婚」とは何なのか。人は結婚に何を求めているのか。
端的にいうと、結婚とは社会的に配偶者として承認を得る事である。婚姻関係になるとお互いに法的な責任が生じ、それは様々な時代や文化による社会規範によって規定される。
前近代的な婚姻は、家と家の繋がりを強固にするものであった。例えば、武家同士の政略結婚。これも古い価値観のようには思われるが、婚姻関係によって異なる家同士が繋がり、それによって利益をもたらすというのは消滅した価値観ではないはずだ。
もちろん、このような政略結婚は現代ではもっぱら韓国ドラマのような、フィクションの中の話で、大半の私たちにとって現実味はない。
お見合いによる結婚が古い慣習という概念になり、恋愛による結婚が当たり前のような感覚に私たちは陥っている。
とはいえ、この「恋愛」というものも物凄く定義が曖昧な概念だ。明治~大正期の文化人のいうそれはロマン主義(合理主義に対して人間の感受性に重きを置いた主張)として、身分や立場を超えた恋愛は当時の人々憧れの対象になった。これは現代でも、昨年の韓国ドラマ「愛の不時着」の流行度合いを見る限り、南北分断された朝鮮半島で北朝鮮人将校と韓国人財閥令嬢の文字通りドラマテックな恋愛模様は人々の心を揺れ動かしたのだろう。
ただここで留意したいのは、恋愛というものが一個人の感情によって動かされるものであるなら、それは社会的規範に規定される「結婚」とは本質的に逆の意味を有するということだ。
またどんなに私たちが恋愛による結婚を理想化したとしても、恋愛対象を結婚対象の延長線上として選別するという点から、数ある社会的要因を気にしながら相手を探しているのではないのだろうか。
逆にいえば、結婚という社会的ステータスを手に入れるのなら(結婚の選択が必ずしも良いと言っているわけではない)、好きという感情もさることながら、それだけでは建設的な家庭を築くことに無理が生じるという可能性をも考慮に入れなければならない。
昨今の婚活ブームは前近代的な家が主導のものではないが、ある程度自分の要求を満たす相手を探しに行くという合理性は「お見合い」とその行動原理は同等なもの言って過言ではないだろう。