一国の首相が、「視聴者に向けたメッセージ」を求められて、何も語れないというのだから、実に情けない。極右政党からの牽強付会な悪口雑言を受け、コロナ対策の重要性を30分にわたり自分の言葉で語り続けたメルケル首相のあの姿勢と対比すれば、いかに今の日本の首相が情けないか、鮮明ではないか。
メルケル首相だけでない。今年は世界中の国々の首脳陣がコロナウイルスによって引き起こされた災禍に対峙し、それぞれの立場に立ちながら、自分の言葉であるいは議会に向けてあるいは広く一般大衆に向けて語り続けている。平常時では己を虚しゅうして職務にあたることが求められる行政のトップでも、危機対応時には責任の所在と指揮命令系統を明らかにするため、あえて自分の言葉で語り出す。メルケルの態度はその典型だろう。
しかし菅義偉は違う。彼は
首相就任から以降今日にいたるまで、頑なに自分の言葉で語ることを拒否し続けている。彼はコロナ禍のまさにど真ん中で権力の座についた。権力掌握に乗り出す前から危機対応が必要だと認知していたはずだし、さらに遡れば8年もの長期にわたった全政権の期間中、ずっと彼は内閣の危機管理の要であると同時にパブリックリレーションの窓口である官房長官の職にあった。立場・経歴ともに、危機時において行政のトップがどう振る舞うべきかを知悉する立場にいたはずだ。
だが彼は何も語らない。いや、語らないどころか、語るべき場所を避けている節さえある。
自民党総裁選挙を経て国会での首班指名選挙が終わったあと、国会が開かれるまでに1ヶ月以上もの空白の期間があったことが何よりの証左だ。コロナ禍が世界全体を覆った今年、コロナ禍対応の最中に首脳が交代したG7加盟国は日本だけだ。その一事だけでもいかに日本の政治状況が異常であるかを物語るに十分であるが、しかしそれに輪をかけて異常なのは、「国家として非常事態にある最中に首脳が交代したというのに、新任首脳が1ヶ月以上何も語らなかった」ということだろう。おそらくこのような事例は、古今東西どこを見渡してもないはずだ。
ようやく開催された国会でさえ、菅首相は自分の言葉で語ることを避け続けた。総理としての答弁が不可避の予算委員会においてさえ、あからさまにメモを読み上げる姿が常態化していたし、そのメモ読み上げも、たどたどしいというよりも、投げやりと形容した方が似つかわしい。
この姿勢は、国会の外でも貫かれている。数少ないテレビ番組への出演でも彼は「
説明できないことがある」などと嘯き、日本学術会議の任命拒否問題などに対する説明を避け続けている。官邸で行われる記者会見でさえ、「動画撮影禁止。記者会見方式ではなく、指名された少数の報道社だけが参加できるグループインタビュー形式で」という指示が出る始末だし、国会閉幕にあたっての記者会見で露呈したように、そもそも記者会見であるにもかかわらず質問の時間を設定しないという挙にまで出ている。危機時であろうが平常時であろうが、ここまで自分の言葉で語ることを徹底して避ける為政者の事例を他に求めることはおそらくできぬだろう。それほどまでに、
菅首相は意図して徹底的に「語ることそのもの」を忌避している。
前任の安倍晋三氏は、総理在職中、その場凌ぎの嘘をつき続けることが常態化していた。政権後期には、その嘘が露呈せぬよう官僚たちが公文書の隠匿や改竄に手を染めることさえ常態化していたことも記憶に新しい。
確かに安倍氏は言葉を弄び、言葉の重さを自覚せず、言葉を軽視した。しかし、菅義偉氏の姿勢はこうした安倍氏の姿勢と比べてもさらに異常だ。安倍氏の姿勢を「
言葉の軽視」と表現するのであれば、菅氏の場合は「
言葉の無視」あるいは「
言葉の必要性をそもそも認めていない」との表現こそが相応しい。
政治は言葉でつくられる。政局争いであれ、政策論争であれ、選挙そのものであれ、政治のあらゆる局面は言葉によって形づけられる。だからこそ政治家には雄弁家であることや名文家であることが求められるのだ。為政者や一国の首脳となれば尚更だろう。
しかし菅義偉氏は言葉を必要としていない。あらゆる努力を費やして語らぬよう語らぬように努めている。つまり彼にとっての政治の手段とは言葉ならざるものだということなのだろう。
確かに、政治が言葉ではなく言葉ならざるもので動くこともあろう。しかしその場合、必ず、
血もしくは、涙が大量に流れることになることを歴史は教えてくれている。
政治を言葉ならざるもので動かそうとする菅義偉氏が、公安畑出身の警察官僚をはべらせ、日本の権力の中枢である官邸に居座っている……。
こう考えれば、日本の前途は限りなく暗いと言わざるを得まい。
<文/菅野完>
初出:<記事提供/
月刊日本2020年1月号>