マラドーナが左翼であることを公言していたことはよく知られている。
そして2000年代に南米で続々と誕生していた左派政権に積極的にコミットしていた。キューバのカストロをマラドーナは第二の父と慕っていた。反米左派政権のボリビアのモラレス前大統領やベネズエラの社会主義政権をつくったウーゴ・チャベスや、その後継のマドゥロ政権の支持も公言していた。
「私はチャベス(大統領)を信じる。私に対してフィデル(カストロ議長)がすること、チャベスがすること、すべて最高だ。米国からくるものすべてが嫌いだし、米国が心底嫌いだ」(マラドーナ)
ある時は「戦争犯罪者」キャプションのついたブッシュ元大統領の写真がプリントされたTシャツを着てチャベスとともに現れたこともある。ブッシュ政権によるイラク戦争が続いていた時代だ。
パレスチナにも共感をよせて、イスラエル非難も繰り返していた。パレスチナ大統領でPLO議長のアッバースとの会談の際には「私は心のパレスチナ人だ」ともいっている。
マラドーナの左翼思想といっているが、それは彼が敬愛するチェ・ゲバラと同じく、マルクス主義を直接信奉していたというのとは違うだろう。ゲバラがマルクスなどほとんど読んでいないままに革命運動に参加した。おそらく最後までそれほど深くマルクス主義を理解はしていなかっただろう。ただ単に彼は、
南米の現状のなかで、抑圧される弱者の側についたというだけだ。
19世紀から南米はアメリカの裏庭とされてきた。ヨーロッパの列強の植民地主義的なパワーゲームに介入しないアメリカの外交ポリシーはモンロー主義と言われたが、中南米は例外だった。
アメリカはその歴史のなかで延々と中南米の政治に介入しつづけた。特に小国は事実上のアメリカの政治的にも経済的にも植民地に等しい扱いを受けてきた。そして、ひとたびアメリカに逆らうとしたら、様々な圧力や公然の軍事力でねじ伏せられるというのが常でもあった。いわゆる「
棍棒外交」である。これは現在でも続いている。
未来が見えず、経済的に立ち行かないラテンアメリカの貧困層は、自然とよりそうに弱者の思想を語りだし、そして団結しようとした。それは別にマルクス主義がなくともそうなっただろうし、実際に南米の左翼にその影響は比較的少ない。しかし弱者の団結としての左翼思想は南米の左派の政治潮流を力強く形成している。
アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの貧民街、ビジャ・フィオリートでマラドーナは生まれ育った。水道もなく、2つの部屋に家族10人が住むような生活だったという。この極貧の生活をマラドーナは振り返っていう。「この時の感情は、今でも何も変わってはいない」と。
もちろん貧困がそのままキャラクターや人生を規定してしまうわけでもなかろう。しかしマラドーナは勝者のメンタリティを維持することができない。いつも危険なほうへ進んでいく。むしろ自分自身が弱い存在であることを誇るかのごとくふるまう。マラドーナはいつでも故郷の貧民街のビジャ・フィオリートにアイデンティティを置いていた。そしてエスタブリッシュメントをあざ笑い、彼がよく言うところの「ビジネスとキャビアとシャンパンの」サッカー界ではなく、もっとアンダーグラウンドを拠点とした。
そして彼はいつも弱い側にまわった。そこで初めて自身が光輝くということを計算していた。それは彼のキャリアを見ていけばよくわかる。