沢田教一とサタさんの、初めての「二人展」
ベトナム戦争の戦場で日本人ジャーナリストが撮った一枚の写真。数人の子どもを抱えて必死の形相で川を渡りきろうとする母親。「
安全への逃避」と名づけられたこの写真で、ピューリッツァー賞を受賞した戦場ジャーナリスト・沢田教一(1936~1970年)が、カンボジアの首都・プノンペンで銃撃により34歳で倒れてから今年でちょうど50年。
それを節目として、沢田の生まれ故郷である青森県で、妻・サタさん(95歳)との「二人展」が10月20~30日に行われた。会場となったのはサタさんの生まれ故郷であり、現在住んでいる弘前市の弘前オランド・ギャラリースペース。
沢田が亡くなった10月28日には、会場でサタさんのトークショーも行われた。弘前市では新型コロナウイルスのクラスターが発生し、市から月末までの自粛要請が出ていた。
そのため、トークショーは予定していた30分から15分に短縮された。遠方からのファンや地元メディアなど、たくさんの人々が集まり会場は大盛況で、熱気が生まれていた。その中には、シリアで拘束されていたジャーナリストの安田純平さんの姿もあった。
展示会の名前は「二人展」。サタさんにとっては、初めての沢田教一との共同開催となる。会場には沢田が撮影した戦場以外の写真や、沢田が撮ったサタさん、サタさんが撮った沢田の写真など、35点ほどが飾られていた。サタさんが描いた、シャガールの絵の模写や静物画、陶芸作品の展示も行われた。
「沢田は、平和が訪れることを常に望んでいたんです」
沢田教一の妻サタさん(左)は現在、故郷の青森県弘前市で暮らしている
トークショーでは、沢田との思い出をサタさんが語った。
「結婚したときは、教一さんはカメラを持ってなかったんです。私がクビから下げて持っていた黒いカメラを時々使っていました」
二人は、よく国内の撮影旅行に出かけたという。
「ベトナムに行くっていったときはずいぶん反対したんですけど、止められませんでした。私も行きました。ご飯とかもすぐに慣れましたし、快適でした。ニョクマムという調味料があるんですけど、凄く臭いんですね。それにもすぐに慣れました」
一時期は香港に住み、その後ふたりでベトナムに渡ったという。料理の好き嫌いは二人ともなかったようだ。
「教一さんは物知りだったので、私のほうが年上でしたけど、色んなことを教えてくれました。教一さんから教わったことは多いです。だから私は、教一さんが何か言ったら、イエッサ!と答えるだけでした」
サタさんは11歳年上だが、沢田のことを「若じい」と呼び、敬意を払っていた。何か言われたら、「イエッサ!」といって従ったという。
「沢田は34歳のままだけど、私だけおばあちゃんになっちゃって」
ポツリとこぼし、こう締めくくった。
「沢田は、『戦場カメラマン』と言われることを嫌がっていました。平和が訪れることを常に望んでいたんです」
この展示会の沢田の写真に、戦場の写真が一枚もないことが理解できた発言だった。