初日10月2日は19時からスタートしたということもあり何事もなく夜を迎え、そのまま路上で就寝した。翌朝、屋根のない路上の寝床には、当然のように朝日が燦々と照りつける。爽やかな朝の日光に叩き起こされたのがたしか5時ごろ。早朝のこととて、官邸前の歩道には人影ひとつもない。ただ歩哨に立つ機動隊員が暇そうにあくびをしているだけであった。
その時である。「あ。ここ、立ち小便できるな」とふと気付いたのだ。伸び放題に放置されている雑草。誰も拾う人とてなく錆びたまま転んでいる空き缶。雨と雑踏でしかたなく路上にこびりつく紙ゴミ。汚れるがままに放置される官邸の煤けた外観。これで放置自動車の1台でもあれば、目に飛び込んでくる光景は完全にスラム街のそれだ。それになんだこの悪臭は! 掃く人も拾う人もいないために雑踏にふまれ臭いを撒き散らす銀杏の群れ。それに加えて、施工の荒さから常にカタカタ音をならすマンホールから立ち昇る下水の臭いがないまぜになったものすごい悪臭が、容赦無く鼻腔を襲撃してくる。いつもの朝なら大きく伸びをし深呼吸の一つでもするところだが、とてもそんな気にならない。とにかく臭く、汚く、荒れ放題に荒れている……それが、我が国の官邸前の現実だ。
雑草が伸び放題だった官邸前交差点(上)。ハンスト中の菅野氏が草むしりした後(下)
写真:菅野氏のFacebookより
いろんな映画のことを思い出していた。スパイク・リーの『Do the Right Thing』で「マイノリティーの街」として描かれるあのブルックリンの片隅より、現実世界の日本の官邸前の方がはるかに汚い。小津の『秋刀魚の味』で東野英治郎がやっているあの中華屋は「空襲の焼け跡が未だに残る汚い場末」として描かれるが、おそらくいまの首相官邸前の方が汚く不潔だろう。杉村春子は婚期を逃したことではなく、環境の不潔さに慄おののいて泣き崩れるはずだ。
冒頭で、「立ち小便できる街か否か」の線引きを見極めるため、祇園甲部、宮川町、先斗町、神楽坂、歌舞伎町、渋谷など具体的な町の名前を出した。どの街でなら立ち小便できるかどうかは諸兄それぞれのご判断があろう。が、先にも触れたように、その線引きは、街の美観や人通りの多寡や治安によって決まるものではあるまい。おそらくそれは、「
手入れのされてなさ」「
放置のされっぷり」つまりは、「
誰もその街を自分の領分だと認識していない様子」によって決まるもののはずだ。
なればこそ、冒頭であげた実際の街や、映画の舞台となった街で、私自身は、おそらく立ち小便することはない。スパイクリーはあのブルックリンの片隅を、間違いなく「コミュニティ」として描いているし、東野英治郎がラーメンを作るあの場末は場末といえども「商店街」「街場」であり、そうである以上、そこには共同体がある。渋谷や歌舞伎町は野放図にみえても、そこには華夷秩序にも似たゆるやかなコミュニティが存在しているし、祇園、宮川町、先斗町、神楽坂などの花街は、花街なればこその強固かつ堅牢な自治組織が存在する。つまりこれらの街は、「自分の街であり、自分の領分である」と認識する人々が、「自分がそう認識する以上、自分と同じように『自分の街であり自分の領分である』と認識する他人が存在するはずだ」との前提にたって行き交う街である。そしてそう認識する人々が行き交う場所を、人は、「公共」と呼ぶ。「公共」であれば、なるほど、立ち小便は叶うまい。
しかし官邸前にはその肝心の「公共」の雰囲気がない。官邸、議員会館、国会記者会館、内閣府、内閣官房などなど、まさに我が国の「中枢」ともいうべき施設がひしめき合う街角であり、それらの施設に出入りするおそらくは我が国最高学府を卒業したであろう人士が行き交うに街角であるにもかかわらず、誰もがその街角を「自分のもの」「自分がそう認識する以上、他者もそう認識する場所のはずだ」と認識していない。そう認識する人がいなければ、それは「公共」な空間たりえず、誰もが「自分の領域である」と思わないのであれば、それは「私的な空間」ですらない。強いて言うならば、「無主の地」だ。そうとしかいいようがないほどに、官邸前は放置され、荒れ放題になっている。25日間のハンスト期間中、あの道路に面するどの施設からも、歩道を掃く人が出てくる姿を目撃しなかった。「無主の地」なればこそだろう。
そんな「公共」のない「無主の地」で、我が国の公共政策は立案され遂行されている。
そしてその頂点で首相は「意に反する公務員は首を切る」と嘯いている。その光景が、どんなスラム街のどんな薄暗い路地裏でおこなわれるどんな薄汚い犯罪よりも醜悪なものになるのも、いたしかたあるまい。
<文/菅野完>
初出:
Forum21 11月号