原子力の専制政治は、自然破壊というレベルにとどまらず、社会にたいする破壊効果をもたらしました。原子力行政は人々の意識に働きかけ、事実の認識を歪めていきます。それは、政策的・イデオロギー的な意図を持った言葉の置き換えにあらわれています。
福島第一原発事故は明白な公害事件であるわけですが、新聞に「公害」の二文字が載ることはありません。公害問題は、「復興」という言葉に置き換えられます。土壌や食品の汚染被害は、「風評被害」という言葉に置き換えられます。重汚染地域に住民を帰還させる政策は、「被ばく強要」でも「人権侵害」でもなく、たんに「希望」と書かれます。年間20ミリシーベルトの地域に帰還することは、「希望」なのです。人権侵害は、言葉の置き換えと認知の歪みをともなっています。11年以後の日本では、さまざまな不法行為が「絆」や「希望」という言葉で正当化されてきました。
いま問題になっている汚染水の海洋投棄では、「トリチウム水」という言葉が使われていますが、これも問題を見誤らせる置き換えの表現です。東京電力が貯蔵している汚染水は、トリチウム水であると同時に、放射性ヨウ素や放射性ストロンチウムなど多数の放射性物質を含んだ汚染水です。現在の除去装置ALPSは万能ではなくて、多数の核種を除去できないできたからです。
なかでも注目すべきは、ヨウ素129で、これは半減期1570万年という非常に寿命の長い放射性物質です。時間がたてば無くなるというものではない。これが海洋に投棄されれば、沿岸に生息するワカメは放射性ワカメになってしまいます。
また、放射性ストロンチウムはカルシウム成分に混入するものですから、あらゆる魚種に影響を及ぼします。ストロンチウムの影響は今後300年続きます。漁業者たちが海洋投棄に強く反対しているのは、充分な理由があるのです。こうした問題は、新聞では「風評被害の懸念」という言葉に置き換えられてしまうのですが、本当はそんな生易しい話ではないのです。
もうひとつ。報道機関が検証しなければならないのは、タンクの敷地の問題です。東京電力と経産省は、汚染水タンクを設置する敷地が足りないという主張をしていますが、彼らの言い分を無批判に垂れ流すべきではないと思います。
「敷地が足りない」のは、彼らが新たな敷地を用意していないからであって、問題は、なぜ東電・経産省は必要な敷地を用意しないのか、なのです。汚染水の貯蔵が現有の敷地で足りると思っていたのでしょうか。現有の敷地を使い果たしたら、それ以上はもう免責にしてくれということなのでしょうか。事故からまだ10年しかたっていないのに、弱音を吐くのが早すぎるのです。
いや、これは弱音というよりも、居直りと言ったほうがいいかもしれません。経産省は明らかに開き直っている。彼らが福島でどんな不法行為に及んでも、それが公害事件として弾劾されることはないという開き直りがあるのです。
2011年に始まる福島復興キャンペーンは、言葉の置き換えに成功して、批判的な報道機関まですっかりそれに呑み込まれてしまいました。政府が平気で不法行為を行うようになったのは、福島をめぐる原子力専制政治が首尾よくいっていると自信をもっているからでしょう。
だから、もしも日本の科学者たちが学術会議の自律性を護ろうとするのなら、もう一度福島の公害隠し政策に立ち戻って、事態の再検証をする必要があるのです。
<文/矢部史郎>
愛知県春日井市在住。その思考は、フェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズ、アントニオ・ネグリ、パオロ・ヴィルノなど、フランス・イタリアの現代思想を基礎にしている。1990年代よりネオリベラリズム批判、管理社会批判を山の手緑らと行っている。ナショナリズムや男性中心主義への批判、大学問題なども論じている。ミニコミの編集・執筆などを経て,1990年代後半より、「現代思想」(青土社)、「文藝」(河出書房新社)などの思想誌・文芸誌などで執筆活動を行う。2006年には思想誌「VOL」(以文社)編集委員として同誌を立ち上げた。著書は無産大衆神髄(山の手緑との共著 河出書房新社、2001年)、愛と暴力の現代思想(山の手緑との共著 青土社、2006年)、原子力都市(以文社、2010年)、3・12の思想(以文社、2012年3月)など。