――正義を実現しようとする福原優作ではなくその妻の聡子の目線から描く物語になっていますね。
黒沢:昔は僕も頑張っていたのですが(笑)、男はダメだろうなという気がしています。優作は個人と社会の対立の外へ飛び出ていく一方、憲兵隊に属する津森は社会の内部で自分が見えなくなってしまう。社会の内部に留まりながら、社会と対立したままの状態を保てるのは女性しかいないと思います。
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僕が男だから、そしてもう若くはないからなのかもしれません。女性にとっては迷惑かもしれませんが…。フィクションの世界では「女性に託す」という時代になってきたような気がしています。最近は、女性が主人公の物語が多いですよね。男には、社会に飲み込まれるか、もしくは完全に崩壊してしまうか、どちらかの結末しかないでしょうね。
社会の外へ飛び出る優作、社会の内部に埋れてしまう津森、社会と対立を続けたままで生きる聡子という脚本にあった3人の構図は納得できました。
――この作品は昭和初期を描いていますが、黒沢監督にとって昭和とはどのような時代でしたか?
黒沢:僕自身昭和生まれですが、戦前と戦後では大きく異なっていると思います。豊かさも最初の方と最後の方ではかなり変わりましたし、そういう意味で大きく揺れ動いた時代ではないでしょうか。
ただ、社会は大きく揺れ動く一方、人は社会に対応するために四苦八苦したのでしょうが、人の本質はそこまで変わらなかったと思います。
戦争中なので苦しくて皆が地味に暮らしていたようなイメージがありますが、昭和を生きた人たちは皆地味で自由など考えなかったかというと、そうではありません。劇中でも福原家は優作や聡子はもちろん、女中や執事までもが洋装で、ウイスキーは舶来品なんです。
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映画に登場するのは明治の末から大正時代に生まれた人たちですが、大正時代のある種自由な空気を知って不穏な空気の漂う昭和に突入した。だからこそ、戦後を迎えた時に「何をやってもいいのだ」と満を持して、自由を謳歌し始めたんですね。戦後、活き活きと歌ったり踊ったりしていた人たちは、もちろん、戦前にも生きていた人たちなんです。
今の令和の時代においても、完全な自由があるわけではありません。みんな世間体や物事の分別の中で悶々としながら仮の自由や幸せを味わっている。それで本当にいいのだろうか。そういう思いが、この作品を作る根っこの部分にありました。
――黒沢監督は、長谷川和彦監督『太陽を盗んだ男』(’79)の制作助手からキャリアをスタートし、『回路』(’01)、『トウキョウソナタ』(’08)、『岸辺の旅』(’14)他の作品でカンヌ映画国際映画祭などで受賞を重ね、今回ヴェネチア国際映画祭にて銀獅子賞を受賞されています。
一方で、テレビドラマでも作品を送り出しており、幅広いジャンル、メディアで活躍されています。後進の監督もそうあるべきだと思いますが、残念ながら、現在はいわゆるテーマ性の強い自主映画の監督と娯楽色の強い商業映画の監督と2つに分かれている印象があります。その点についてはどのように感じていますか?
黒沢:商業映画と自主映画が別の物として存在していることはいい状態ではないと思います。その間には無限の組み合わせ、バージョンがあるにもかかわらず、「自分は自主映画の監督だから商業映画は撮らない」「商業映画には自主映画的なものは一切入れない」というのはおかしい。海外から見たらみんなまとめて「日本映画」と言われます。
僕は幸いにしてその2つがはっきり分かれていない時代に、映画を撮り始めました。長谷川監督の名前が出ましたが、長谷川監督と同世代の先輩の監督に相米慎二監督がいます。相米監督の映画は自主映画のような作風でしたが、商業映画を送り出している会社が製作していました。そういうスタイルが許された時代を経験できたことはラッキーでした。
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商業映画と自主映画は無視し合っているわけではなく、気にし合ってはいるのでしょうが、なぜあんなに分かれているのかとは思いますね。例えば、自主映画的なスタイルの監督と評価されている三宅唱監督が、最近Netflixで『呪怨:呪いの家』という作品を撮りました。そうした試みはとてもいいことなのでどんどんやって欲しいですね。そして、その逆もやって欲しいです。メジャーな映画だと思って見たら、自主映画的な作風の映画だったというのもいいですよね。
――東京藝術大学で教鞭を取られていますが、若手育成について感じていることをお聞かせください。
黒沢:商業映画、自主映画、テレビドラマ、才能という点では区別する必要ありません。あらゆる才能があらゆる所から出て来て、どんなやり方で作っても構わないと思っています。
ただ、映画館で巨大なスクリーンで不特定多数の人たちと一緒に見る、そこでみんなが同じように「わーっ」と同じように驚く、そういう経験をするのが映画ではないでしょうか。
同時に「多くの人は首をかしげていたけれど、自分だけはエンドクレジットの最後まで席に座っていた。この映画を理解できたのは私一人だ」というのも凄い映画体験です。そういうものを日本映画関係者全員で目指してもらいたいですね。いろんなところにいろんな才能がある。自分から可能性を閉ざす必要はなく、上手く融合させていくべきだと思いますね。
――監督の映画の原体験はやはり神戸の映画館だったのでしょうか。
黒沢:そうです。幼い頃、神戸でよく怪獣映画を見ていました。僕が最初に見たのは、大人になってから調べたのですが、同時期に封切られていた『モスラ』か『怪獣ゴルゴ』でした。
自分で撮りたいと思うのはかなり経ってからですが、初めて見た映画が怪獣映画だったということは大きいことでした。世代もあるのかもしれませんが、真っ暗闇の中でスクリーンを見つめていると、恐ろしい音楽が流れて町が破壊されてバタバタと人が死んでいく。
作っている人たちは空襲の経験者ですから、町が破壊されている様子などは、セットは精巧なものでなかったとしても、逃げる演技は迫真のものです。つまり僕たちは「映画って恐ろしい」ということを幼い頃に経験してしまった世代なんですよ。そのトラウマからなかなか抜け出せません。
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――今後、どのような方向で作品を撮りたいですか。
黒沢:新しい物語でもテーマでも技術でもいいので、何か新しいことにチャレンジしたい
ですね。常に、これまでやったことがないことをやり続けていきたいと思っています。
<取材・文/熊野雅恵>
<撮影/鈴木大喜>
くまのまさえ ライター、クリエイターズサポート行政書士法務事務所・代表行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、自主映画の宣伝や書籍の企画にも関わる。