『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の世界が持ち続ける「平和への志向性」

暴力の経験史

 まず、今井宏昌『暴力の経験史 第一次世界大戦後ドイツの義勇軍経験1918~1923』(法律文化社、2016年)序章を参考に、戦間期ドイツの経験史的アプローチとは何かを概説する。  なぜ第一次世界大戦後のドイツが、当時としては世界で最も民主主義的な憲法の一つであるヴァイマル憲法を有していながら、最終的にヒトラー政権の樹立に至ってしまったのか。これが戦間期ドイツを研究する者にとっての大きな問いであった。  ジョージ・モッセは、第一次世界大戦という未曾有の戦争体験の「神話化」が、人々を暴力に慣れさせ、「政治の野蛮化」に至ったと指摘している。ヴァイマル時代のドイツでは、政治党派ごとに多くの準軍事組織が並立しており、末期には激しい街頭闘争が繰り広げられていた。  ヴァイマル時代のドイツでは、右翼的な元軍人らの戦争体験が一種の英雄譚として語られ、戦没者の「英霊」崇拝が盛んになっていた。こうした「戦争体験の神話化」がもたらす戦時的なものの戦後への継続を背景に、反ユダヤ主義や、政敵の物理的排除といった「政治の野蛮化」が進んだ。  「政治の野蛮化」が、ヒトラー政権に帰結したというモッセの議論を「野蛮化」テーゼという。しかし、この「野蛮化」テーゼには反対意見もある。モッセの議論においては、第一次世界大戦の戦争体験から政治の「野蛮化」までのルートは一直線だったかのようにみえる。確かに戦争の体験は人々の行動を変容させる。しかし、その変容のあり方は多様な可能性に満ちていたのではないか。  ここで現象学や知識社会学にヒントを得た経験史的アプローチが登場する。人々はある出来事を体験する。しかしその体験だけではまだ何も起こらない。人々はその体験を解釈する。解釈された体験が、経験である。そして体験の解釈は、これまで同じ体験がどう解釈されてきたか、他の人はどう説明してきたか、など、既に社会の中に存在する解釈のモデル「解釈型」を参照することによって決定される。もちろん「解釈型」も複数存在するのであり、どのようなモデルに基づくかによって、自身の体験の解釈は左右される。したがって、そのことによって生じた経験に従って促される行動変容も、また多様な可能性があるのだ。  たとえば戦争という出来事を体験したとしても、それが平和主義の解釈型を通して解釈されれば次に期待される人々の行動は戦争の阻止となる。一方、報復主義の解釈型を通して解釈されれば、人々は次の戦争のために準備するだろう。  第一次世界大戦後のドイツでも、皆が第一次世界大戦を英雄譚として経験したわけではなく、平和主義を志向するようになった人々もいた。実証的には、人々の多様な経験史が報告されている。ナチズムへの道は、けして単線的ではなかったのだ。

経験の媒介者

 前提説明が長くなってしまったが、こうした研究史的な手法をふまえて改めて本作の舞台設定を考えると、ドールというシステムが、いかにこの世界の戦後社会において重要だったかがわかる。手紙代行業に依頼する者とは、つまり自分の体験をひとりでは経験化することができない者のことだ。ドールは依頼人の代わりに、依頼人の体験を解釈し、手紙へと変換する。その際、解釈された体験は、ドールの身体に共同主観的に保存され、新たな経験として解釈型を更新していく。  人々が体験を解釈するための指針となる解釈型は、それ自体、不動のものではない。社会において新たな経験が積み重なっていくにつれて、解釈型もまた変容する。経験は、それぞれの主体と解釈型のあいだにあって、その二つを結びつける。  それぞれ固有の戦争体験をもつ依頼人たちが、ドールという解釈型を通して手紙を作成し、その手紙の作成過程で経験がドールの中に蓄積されていく。それを繰り返していくとすれば、ドールは経験史の人格的象徴となる。  ドールが伝える手紙は、国家的なイデオロギーや、通俗道徳が内面化された「うらはらな気持ち」ではなく、人々の本心としての愛情や悲哀といった生き生きとした感情に満ちている。そこに現れているのは血の通った人間同士の交歓であり、自ずとそれは、平和主義的な解釈型へと導く。  『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の世界は、戦争が再発する可能性がなくなっているわけではない。TVシリーズの終盤は、報復主義にとらわれ、まさに「野蛮化」してしまった旧軍人との対決が行われている。そのような緊張を乗り越え、人々が戦争の抑止を志向するような解釈型の場となることが、ドールに期待された役割なのだ。この世界は、我々の世界が辿りえた可能性の歴史なのであって、その意味で、本作からは反戦のメッセージが読み取れるのだ。

ヴァイオレットの歴史化

 『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、ヴァイオレット個人の物語に決着がつくだけでなく、ヴァイオレット自身が歴史的存在になるという結末で終わる。文明が進歩し、手紙という間接的な伝達手段は電話という直接的な伝達手段へと変わり、ドールという職業も消滅する。  しかし時代が変わっても、ドールが持っていた経験の場としての機能は、ヴァイオレットが歴史化することによって「刻印」され続ける。そうやってヴァイオレットの世界は、平和への志向性を持ち続けていくのだ。  『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、劇場版が前述の通り上映されているほか、TVシリーズおよび外伝がNETFLIXで配信中。この無味乾燥な批評とは異なり、本編はかなり「泣かせ」を意識している作品なので、視聴する際は心構えが必要だ。 <文/藤崎剛人>
ふじさきまさと●非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ:過ぎ去ろうとしない過去 note:hokusyu Twitter ID:@hokusyu82
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