「ゆたかな社会」には、数字で測りにくいという大きな弱点があります。様々な指標を用いて、多面的に分析し、丁寧な説明を受ければ、たいていの人々は理解できますが、直感的な分かりやすさに欠けています。
それに対し、
GDPや株価など数字で測れる金銭的な指標で、ゆたかさを追求すればいいとの考え方があります。それらの指標を改善すること、イコール社会が良くなることと見なすわけです。
その方法には色々とありますが、
カネ儲けを絶対善とすることがもっとも有効との考え方があり、新自由主義(ネオリベラリズム)と呼ばれます。誰もがカネ儲けという利益拡大に全力を注げば、社会全体の利益もそれに伴って拡大するとの考え方です。
非常に直感的で、分かりやすい考え方です。
新自由主義では、カネ儲けのためならば何をしてもいいと考えるため、国家を私的に利用することや格差を拡大することも問題視されません。しばしば市場原理主義と呼ばれるため誤解されやすいのですが、新自由主義では、好き勝手やる行為への国家の介入は戒められるものの、国家から特別の庇護を受けて利益追求することは良いことと見なされます。実際、
新自由主義の祖である経済学者のフリードマンやハイエクは、チリの軍事独裁政権のブレーンとなり、新自由主義の経済政策をチリで実践しました。アメリカ企業はそれによって大儲けし、チリの人々は苦難に陥りました。
新自由主義の経済政策を実践する上で、
邪魔になるのは社会的共通資本の「制度資本」です。特に、公正かつ透明な市場を確保するための法令・制度や、カネ儲けにつながらない考え方・批判的な考え方は、新自由主義にとって大きな敵です。
カネ儲けのやり方を縛り、格差の拡大などを批判し、新自由主義を阻むからです。
また、
新自由主義では、社会的共通資本の「自然環境」と「社会的インフラストラクチャー」を利益追求から隔離した聖域と見なしません。それらを使ってカネ儲けすることは、絶対的な善です。そのため、それらを民営化(私有化)し、利用する人々から対価を受け取ることが望ましいとされます。対価を支払えない人は、頑張ってカネを稼ぎ、対価を支払えばいいのであり、むしろ
無償で提供してしまえば、人々がカネ儲けの努力をしなくなるので、良くないこととなります。
新自由主義では、ペンペン草も生えないくらいあらゆるモノ・コトをカネに替えることが、社会を良くすることと同義なのです。
学術会議に介入し、その力を削ぐことは、新自由主義からすれば、正しい行為となります。まともな学者は、カネ儲け以外の価値を追求しています。彼ら・彼女らの社会的な権威と影響力を低下させることは、相対的にカネ儲けしやすい社会につながるからです。
政権の権威を相対的に高められるため、権威主義からしても、正しい行為となります。政権に反抗的と見なした学者に地位をむざむざと与えることは、それに屈服する行為と、権威主義者ならば考えるからです。もちろん、
客観的に権威が高まるといえるかは大いに疑問です。
よって、
強硬な新自由主義者の竹中平蔵氏をブレーンとし、権威主義的な菅首相からすれば、学術会議への介入は極めて正しい行為となるわけです。むしろ、野党やメディアが問題を追及するほど、介入を強化しようとするでしょう。実際、
河野太郎行政改革担当大臣は学術会議を行政改革の対象にすると表明しました。
つまり、
学術会議の問題は、日本で新自由主義をさらに強化するのか、それとも新自由主義から脱却するかの一大争点という面もあります。有権者が、どうやって「ゆたかな社会」を実現するのか、それも問われているのです。
新自由主義という旗を鮮明にした菅首相率いる自民党・公明党の与党ブロックか、それとも
社会的共通資本の充実を掲げる枝野幸男代表を中心とする立憲民主党・共産党の野党ブロックか。
すべての有権者には、総選挙までに新自由主義への姿勢を明確にすることが迫られています。
<文/田中信一郎>